「回峰行のようなもの」(3/3)
今回は比叡山の山麓にある坂本地域と回峰行のルートにも入っている日吉大社、そして延暦寺東塔へと向かう本坂です。
坂本地域の地図
私が歩いた大宮谷林道、本坂も描かれています。
日吉大社のマップ
西本宮
東本宮
では前回のつづきです。
88,日吉大社近くの案内板
大宮谷林道を下り、左手に行くと比叡山高校横の石段に出ます。
この石段を降りたところにある案内板です。
14:17
この地蔵尊は変じて真盛上人(西教寺開山)として現れ、入寂の後に再び地蔵尊に復されたと言われている。
伝教大師が童子教育に心を注がれながら彫まれたので「子育て地蔵」とも呼ばれている。
14:19
90,早尾神社
子育て地蔵尊横の石段を上がったところ。
14:21
現在修復中のため、御祭神のスサノオノミコトは大物忌社へおうつり中。
91,日吉大社大鳥居
日吉大社は今から約2100年前の崇神天皇7年(BC91)に創建。
平安京遷都の際には、この地が都の表鬼門(北東)にあたることから、都の魔除・災難除を祈る社として、また伝教大師が比叡山に延暦寺を開いてからは天台宗の護法神として今日に至る。
14:22
92,山王鳥居(合掌鳥居)
この鳥居は上部に三角形の破風(屋根)が乗った形をしており、仏教の胎蔵界・金剛界と神道の合一を表しているとされる。
14:32
93,白山宮
14:41
94,左から剱宮社、小白山社、八坂社、北野社
14:41
95,宇佐若宮
14:42
96,宇佐竈殿社
14:44
97,氣比社
14:44
98,西本宮楼門
14:47
99,西本宮
14:48
100,大宮竈殿社
14:58
101,宇佐宮本殿
15:00
102,救済(おたすけ)地蔵
15:13
103,忍耐(しんぼう)地蔵
15:15
104,恵毘須社
15:16
105,三宮遥拝所(左)、牛尾宮遥拝所(右)
中央にある石段から八王子山を30分ほど登ると、頂上付近に三宮と牛尾宮の本殿、拝殿があります。
今回は時間の都合上、遥拝所からの参拝となりました。
15:24
106,内御子社
15:28
107,二宮竈殿社
15:31
108,新物忌神社
15:32
109,大物忌神社
15:33
110,稲荷社
15:35
111,東本宮本殿
15:35
112,樹下若宮
15:38
113,須賀社
15:41
114,巌瀧社
15:42
115,氏神神社
15:44
116,氏永社
15:45
117,八柱社
15:47
118,求法寺走井元三大師堂
日吉大社表参道脇。延暦寺第4代天台座主安慧の里坊。後に良源(元三大師)が延暦寺に入寺する際にこの地で一旦休息し、修行の決意を固めたことから求法寺と称するようになった。
15:55
この後、生源寺そばにある「本家鶴㐂そば」で少々遅めの昼食に蕎麦をいただきます。
こちらは「本家鶴㐂そば」のサイト → http://www.tsurukisoba.com/
119,生源寺
伝教大師最澄は天平神護2年(766)8月18日にこの地で誕生。
その屋敷跡に建てられたのが生源寺。最澄の父百枝公と母藤子妃は子が授からず、八王子山に一週間の願を立て草庵に籠ると、ほどなくして最澄が生まれた。
16:23
最澄が産まれたときに産湯の水として使われた古井戸「産湯井」。
120,南善坊
南善坊は信長による比叡山焼き討ち以来途絶えていたが、光永覚道大阿闍梨(1990年に千日回峰行を満行)が再興した里坊。
里坊とは、比叡山の厳しい気候に堪えられなくなった老僧や、病弱の僧徒が隠居保養するための場所。
運が良ければ光永覚道大阿闍梨とお話をすることもできるそうですが、私が訪ねた時間はいらっしゃいませんでした。
16:47
南善坊から見た坂本と琵琶湖。
121,南善坊前の石段。
この石段を上ると本坂。
16:48
122,本坂
このように流水によりえぐられた場所もありました。
16:52
三井寺には「弁慶の引きづり鐘」がありますが、本当に弁慶はこのような急坂を一人で鐘を引きづって上ったのでしょうか?
123,花摘堂跡
伝教大師最澄の御母堂・妙徳(藤原藤子)夫人は、山上の大師の房を訪ねてこの峯に至ったが、当時比叡山は女人禁制(明治初期まで)だったため、これより進むことはできず、大師が山を下って母と謁した地。
後に智証大師は、ここに自らの母を祭る三宮を建てた。その後四月八日の釈尊降誕会に限って伝教・智証両大師の母君を偲んで、女性もこの地に花を供えることが許された。花はこの峯の花を摘んで供えたので、花摘堂と呼ばれた。
17:09
124,法然堂
浄土宗の宗祖である法然が皇円上人のもとで18歳まで3年間修業した功徳院跡地。法然はその後、黒谷青龍寺に叡空上人の門戸を叩き、黒谷青龍寺において25年間にわたり修行する。
17:43
125、星峰稲荷社
17:51
126,天台大師像
最澄の出現よりさらに遡ること200年。中国天台宗開祖である智顗(天台大師)の像。文殊楼横の丘の上。
17:55
127,大書院正門
昭和3年(1928)、昭和天皇のご大典記念と比叡山開創1150年記念事業として、東京赤坂山王台にあった村井吉兵衛の邸宅を移築した純日本式の建築物。設計は武田五一。
通常は非公開なので、中には入れません。
17:58
128,厄除不動尊
出発時に厄除不動尊を撮ったのがAM4:54。
所要時間13時間4分。
無事、日暮れ前に戻ることが出来ました。
17:59
この日の歩行距離は28km、歩数は47,379歩
11時台の歩行距離が少ないのは、元三大師堂での渡邊惠淳執事による不動明王への護摩行で祈願していたため。
こちらは、翌日延暦寺会館1階の喫茶「れいほう」にていただいた「梵字ラテ」。
自分の守護本尊を申告すると、その梵字を書いてくれます(干支と守護本尊の一覧表があるので、自分の守護本尊を知らなくても心配無用です)。
延暦寺のお坊さんによる発案、料金は700円。
私の干支は申なので守護本尊は大日如来。
各干支の守護本尊と梵字です。
カッコ内は下部写真内の位置と読み。
子 千手観音(右上 キリーク)
丑・寅 虚空蔵菩薩(左下 タラーク)
卯 文殊菩薩(中上 マン)
辰・巳 普賢菩薩(左中 アン)
午 勢至菩薩(中右 サク)
未・申 大日如来(左上 バン)
酉 不動明王(右下 カーン)
戌・亥 阿弥陀如来(中下 キリーク)
こちらは喫茶「れいほう」からの景色。
では最後に今回の記事の参考書籍です。
「伝教大師最澄の寺を歩く」 JTBパブリッシング 監修比叡山延暦寺
「回峰行のようなもの」(2/3)(動画)
今回は横川(よかわ)地域、大宮谷(おおみやだに)林道までの写真です。
まずは前回も載せた全体地図と千日回峰行のルートを再度掲載。
さらに大宮谷林道と本坂が載っているマップをネット上で見つけましたので、こちらも載せておきます。
次に横川地域の紹介。
・横川地域
横川地域マップ
横川地域航空写真
では前回からの続き。
64,横川入り口
AM9:47
65,龍ヶ池辯財天
龍ヶ池(たつがいけ・別称は赤池)は元三(がんざん)大師が大蛇を封じ込めたと言われている。その後大蛇は弁財天に仕え、横川を訪れる人々の安全と心願成就を助力するようになった(比叡山七不思議の一つ)。
AM9:56
66,三十番神
日蓮宗の宗祖・日蓮聖人が横川定光院にて修行中、日蓮聖人を励ますために現れたのが法華経守護の三十番神。
AM10:04
67、根本如法塔(こんぽんにょほうとう)
慈覚大師円仁が法華経八巻を書写したものを納めるために建てられたのがはじまり。
信長の焼き討ちにより消失し、現在の塔は大正14年に建てられた。
AM10:06
68,千手観音
龍ヶ池から根本如法塔へと向かう途中。
未確認ですが、こちらも西国三十三箇所霊場の石仏の一つだと思います。
穏やかなお顔でした。
AM10:07
69,横川中堂
慈覚大師円仁が入唐求法の旅より帰国後、嘉祥元年(848)に建造。
その後は信長の焼き討ち、昭和17年の雷火など消失、再建を繰り返し、現在の建物は昭和46年(1971)、伝教大師1150年大遠忌の際に復元される。
AM10:08
70,赤山宮
横川中堂の向かい側。
赤山宮の解説は、駒札写真を参照してください。
AM10:11
71,一念寺跡
赤山宮の右側。
横川中堂の政所跡。
明治後期に高浜虚子がこの地に籠り、小説「風流懺法」を書いた。小説の中の小僧一念からとって名付けられた(石碑の横に彫られていた説明)。
AM10:12
72,逆修爪髪塔
横川中堂から坂を上ると左手。
横川をこよなく愛した俳人高浜虚子の生前墓、1953年10月建立。
「逆修」とは死後33年かけて修行するものを、生きているうちにおこなうこと。
虚子没後に遺骨が分骨された。
AM10:23
73,鐘楼
逆修爪髪塔からさらに上ると正面に見える。
横川中堂から鐘楼までの道沿いには西国三十三箇所霊場の石仏が数多く並んでいます。
AM10:25
74,元三大師御廟(がんざんだいしみみょう)
龍ヶ池のある道まで戻り、山を左手にあがると慈恵(じえ)大師良源(元三大師)の墓所。
ちなみに伝教大師最澄の墓所は御廟(ごびょう)、元三大師の墓所は御廟(みみょう)と読み方が違います。
AM10:36
元三大師御廟拝殿
御廟はこの裏手。
AM10:37
御廟入り口
AM10:39
比叡山三大魔所の一つで最大の魔所と言われる元三大師御廟。
飯室谷不動堂のサイトによると残る二つは天悌峰と飯室谷・慈忍御廟、しかし天悌峰の場所が分からずに探した結果、「偲フ花」というサイトにたどり着きましたのでこちらをご覧下さい↓
飯室谷不動堂のサイトによれば、魔所とは恐ろしい場所という意味ではなく、清浄地であることより、身を慎み殺生などをしてはいけないという地だそうです。
石柱だけの墓は、良源が遺言により立派な墓を作ることを禁じ、墓所は荒れるに任せるように、と言ったため。
この墓所の奥は切り立った崖で京都の北東の末端に当たり、京都の鬼門に当たる比叡山の、そのまた鬼門に当たる横川の、更にその最も鬼門に当たる場所に位置する。
要するにこの地は鬼門中の鬼門であり、魔なるものを封じる最前線ともいうべき場所。
この墓所を見ると、元三大師の人柄が伝わってきます。
75,弥勒石仏
元三大師御廟から定光院へと向かう分岐点。
AM10:45
76,定光院へと向かう急な下り道。
AM10:48
77,定光院と日蓮聖人
定光院は日蓮宗の宗祖である日蓮聖人が12年間修行された場所。
この地は横川の中でも最も奥にあり急な坂を往復しなければならず、訪れる人もわずかです。
私が行った際も私以外には誰もおらず、現在の定光院主任で岐阜県のお寺から来ている高橋教行上人としばしお話させていただきました。
定光院の主任は本来は3年で交代となるそうですが、辺鄙なところで冬の寒さも厳しく、なり手がいないため高橋主任はすでに7年間この地にいるそうです。
日蓮聖人
AM11:02
定光院
建物の写真を撮り忘れてしまったため、こちらのサイトの写真を使用させていただきました↓
https://kuraryoko.com/kyoyokaw.html
私がお話させていただいた現在の定光院主任・高橋教行上人の動画がありました。
78,定光院境内の社
AM11:14
79,比叡山行院道場
全国から集まってきた僧侶が修行する場で、一般人は立ち入り禁止。
このときも読誦の声が院内から聞こえていました。
AM11:21
80,甘露山王社(現在修繕中)
甘露とは観世音菩薩が衆生を救うために降らす甘い雨のことだそう。
AM11:22
81,箸塚辨財天
東塔の無動寺弁財天、西塔の箕淵弁財天とともに延暦寺三大弁財天の一つ。
良源が千僧供養(1000人の僧に供養すること)をおこなった際に使用した箸が埋められ、弁財天が祀られた。
AM11:26
82,元三大師堂(四季講堂)
慈覚大師円仁が開いた横川をさらに発展させたのが第十八代天台座主慈恵大師良源(元三大師(がんざんだいし))。
元三大師堂は良源の住居跡とされ、四季に大乗経を論義する「四季講」が始まることから四季講堂とも呼ばれる。
良源は入滅の日が元日3日であったことから元三大師と呼ばれる。
元三大師堂はおみくじ発祥の地としても有名。
元三大師堂は執事(しゅじ)と呼ばれる住職が三年の任期で守っている。
ここでの生活は「看勤地獄」と呼ばれ、無動寺谷の「回峰地獄」、浄土院の「掃除地獄」とともに延暦寺三大地獄の一つ。
AM11:27
時代劇で京都の町家などの入り口に貼られている「角大師」もこちらが発祥の地。
永観二年(984)、京都に疫病が流行した際に良源が疫病神の退散を祈願、鏡の前で禅定に入ると、あばらが浮き出て角の生えた鬼の姿に。
弟子達がその姿をお札に刷り家々の戸口に貼ってまわると、疫病は終息した。
私が元三大師堂に伺った時には、ちょうど渡邊惠淳執事による不動明王への護摩行が始まったので私も後ろで祈願させていただきました。
すると執事は護摩行の最後に私の方へと振り返り、加持をしてくださいました。
ありがたいことです。
私に加持をしてくださった渡邊執事が比叡山の三年籠山行に入ったときの動画が、youtubeにupされていました。
今から15年前の映像です。
動画内の渡邊惠淳さんが、現在の元三大師堂執事です。
そしてもう一人の武円超さんは、僧侶という立場で現在は延暦寺管理部において根本中堂改修工事の現場責任者をしておられます。
一度はエンジニアを目指して理系の大学で学ばれた武円超さん、やはり人生に無駄なことはないということですね。
お二方ともとても立派になられました。
83,道元禅師得度の地
元三大師堂前の谷を下ったところ。
12:38
84,恵心堂
浄土教の素地をつくった恵心僧都源信が初めて念仏三昧修行をしたお堂で、念仏三昧修行の道場として知られる。
元三大師堂から鐘楼方面に坂を上がった先。
12:45
85,海軍通信学校戦没者慰霊の碑
恵心堂から更に先に進むと右手。
碑文の一部
昭和16年5月1日、全国より海軍に志願した「海軍通信学校第58期生、千三百有余名、翌17年3月卒業、僅か16,7歳の年少兵ながら祖国の危機を救わんの赤誠に燃え、太平洋戦争の激戦地に赴く
酷寒の北洋に南溟の涯遠く、勇戦奮闘、悲しき哉
五百有余名の若き魂国に殉じ敗戦に終わる
12:48
86,元三大師の御燈明(みあかし)
御燈明とは神仏の前に供える灯火のこと。
このまま真っ直ぐに進むと横川行者道ですが、今回は大宮谷林道を通って坂本へと下るのでここで引き返します。
12:51
87,大宮谷林道へ
横川入り口方面へと戻ると写真のような建物が有り、その裏を左手へと行くと大宮谷林道への入り口。
13:01
ここからの数枚は大宮谷林道の写真。
13:16
林道の左手には大宮川。
13:16
ここまでで最も歩きやすい道でした。
13:32
あちらこちらで斜面が崩れている。
13:40
この写真は崩れた岩を通りすぎてから撮ったもの。
道路は麓の坂本に向かって左手が大宮川、右手が崖。
13:53
この先はどこに行くのでしょう?
千日回峰行の飯室回峰道では大宮川を渡る場所があります。
酒井大阿闍梨の映像では丸太を渡しただけでしたので、この場所かどうかは定かではありません。
13:55
途中の案内板。
14:12
ここで大宮谷林道が終わります。
今回で終了の予定でしたが、坂本と本坂は次回にすることといたしました。
「回峰行のようなもの」(1/3)(動画)
今回は「回峰行のようなもの」をおこなったときの写真です。
堂塔の他にも、目に付いたものは出来る限り写真に残すように心掛けました。
まずは比叡山の全体像。
前回の記事でも紹介した千日回峰行のルート
宿泊していた延暦寺会館(2枚目の図のほぼ中央)をAM4:54に出発。
ちなみに東塔地域にある総本堂根本中堂(こんぽんちゅうどう)の標高は681mなので延暦寺会館の標高は約700m程度だと思います。
・東塔地域
東塔地域マップ
東塔地域航空写真
1, 延暦寺会館前のしょうぐうさんと厄除不動尊に挨拶してスタート
AM4:54
AM4:54 厄除不動尊
急な石段を登ると文殊楼。
比叡山延暦寺全体の総門の役割があるため、正式な参拝はまず文殊楼をくぐることからはじまる。
AM4:56
3,根本中堂
文殊楼を通り反対側の石段を下ると総本堂の根本中堂がある。
現在60年ぶりの大改修中。
現在の建物は信長の比叡山焼き討ち後、寛永19年(1642)に3代将軍徳川家光により建てられた。
柱は76本あり、諸国の大名が寄進したことから「大名柱」と呼ばれる。
中陣の天井は「百花の図」といわれ、二百に及ぶ草花が極彩色で描かれている。これは当時の各藩を代表する草花を各々の藩の絵師が描いた物。
延暦7年(788)から消えることなく輝き続けている「不滅の法灯」は、信長の比叡山 焼き討ちの際に消えたが、山形県山形市立石寺に分灯されて灯し続けられていたものが、再度延暦寺に再分灯で戻された。
AM4:57
前日に撮った内部の写真。
4,萬拝堂
平成8年建立の新堂。
比叡山の回峰行者が、日本全国の神仏を遙拝することから名付けられた。
AM5:02
5,大黒堂
最澄が籠山修行中に大黒天が現れ「毎日1000人の修行僧が暮らし向きに困らないように財政を守ります。」と告げて姿を消した。
それに感激した最澄が大黒天の像を刻んで安置したのがはじまり。
祀られているのは大黒天、毘沙門天、弁財天の顔を持つ「三面大黒天」。
別名出世大黒天。
AM5:02
6,大講堂前の鐘楼
別名「開運の鐘」。
むかしは比叡山に一大事があった時にこの鐘が撞かれた。
こちらは1回50円で鐘を撞くことができます。
AM5:08
7,大講堂
学問修業の場比叡山の道場。
僧侶の試験ともいうべき「論義法要」がおこなわれる。
昭和31年の火災で焼失。
現在の建物は坂本にあった讃仏堂(東照宮の本地堂)を移築。
AM5:08
8,大講堂裏の瑞雲院(この隣には前唐院が繋がっている)
瑞雲院は法華三昧道場、前唐院は第三世天台座主慈覚大師円仁の住坊。
AM5:11
9,国宝殿
仏像、仏画、書跡などが展示されている。
この名称は最澄の『山家学生式』の「一隅を照らす。これ則ち国宝なり。」から付けられた。
AM5:13
10,栄西禅師修行の地
AM5:18
11,戒壇院
正式な僧侶になるための受戒・伝戒を授ける場所。
大乗戒の一つ「円頓戒(えんどんかい)」受戒のとき以外、扉が開くことはない。
AM5:26
12,阿弥陀堂
昭和12年、比叡山開創1150年を記念して建立された。
AM5:30
13,東塔(この裏手に灌頂堂)
昭和55年比叡山開創1200年を記念して建立された。
灌頂(かんじょう)堂は伝法灌頂、結縁灌頂などをおこなう場所。
AM5:30
14,弁慶水
AM5:36
弁慶水は、西塔に住んでいたとされる武蔵坊弁慶が千日の間「千手堂(山王院)」に参籠した際に、仏に供える水、閼伽水(あかみず)を汲みに通ったと伝えられている。
15,為法界萬霊の石仏
AM5:36
弁慶水の隣には為法界萬霊の石仏。
法界とは真理の世界、全宇宙のこと、万霊とはこの世の中の一切の生き物のこと。
つまりこの世の全ての生きとし生けるものを供養するための石仏。
16,山王院
AM5:39
山王院に掛けられていたわらじ
17,山王社(山王院下にある社)
AM5:39
18,山王院横の参道を下り、西塔地域へと至る。
AM5:42
ここから西塔地域に入ります。
・西塔地域
西塔地域マップ
西塔地域航空写真
御廟は十二年籠山行をおこなう侍真僧により守られている。
前日の夕方にも浄土院を訪れましたが、そのときには読誦の声が中から聞こえてきました。
AM5:46
こちらは十二年籠山行の映像
御廟横にある、最澄自作の阿弥陀如来(秘仏)が祀られている阿弥陀堂は現在改修中。
AM5:48
御廟で焚かれていた香
21,浄土院横の湧き水
AM5:52
22,浄土院から西塔地域の本堂である釈迦堂方面へと向かう参道
AM5:57
23,五重照隅塔
「個々人が思いやりの心を持って、一隅を照らす人になる」との願いが込められている。
これは伝教大師最澄が、比叡山に学ぶ僧に対する教育理念と修学規則を定めた「山家学生式(さんけがくしょうしき)」の教えからきている。
国宝とは何物ぞ
道心なり
宝とは道心なり
道心ある人を
名づけて国宝と為す
故に古人言わく
径寸十枚、是れ国宝に非ず
一隅を照らす
此れ則ち国宝なりと
国の宝とは何か。
宝とは、道を修めようとする心である。
この道心をもっている人こそ、
社会にとって、なくてはならない国の宝である。
だから中国の昔の人は言った。
「直径一寸(3センチ)の宝石十個、それが宝ではない。
社会の一隅にいながら、社会を照らす生活をする。
その人こそが、なくてはならない国宝の人である」
と。
天台宗のキャラクター「しょうぐうさん」も、ここから名付けられました。
AM5:58
24,箕淵弁財天
延暦寺三大弁財天の一つ。
ちなみに残りの二つは、東塔の無動寺弁財天、横川の箸塚弁財天。
AM5:59
25,親鸞聖人ご修行の地
AM6:01
26,真盛上人修学之地
AM6:01
27,椿堂
堂名の由来は聖徳太子が入山した際、杖にしていた椿の枝をさして置かれたところ、その椿が芽を出して大きく育ったという伝承から。
AM6:04
28,にない堂(向かって左が常行堂、右が法華堂)
武蔵坊弁慶が常行堂と法華堂をつなぐ渡り廊下を天秤棒(にない棒)にして担いだという伝説から、にない堂という名がついた。
AM6:09
にない堂
不眠不休で「なむあみだぶつ」を唱えながら阿弥陀如来の回りを歩き続ける常行三昧(念仏行)がおこなわれる。
法華堂
一日2回の食事、用便と経行以外は結跏正座し、心を集中して黙想に明け暮れる法華三昧(止観行)がおこなわれる。
武蔵坊弁慶が、にない棒にして両堂を担いだと言われる渡り廊下
29,釈迦堂へとつづく参道
参道途中の左に恵亮堂、右に西塔政所
AM6:13
30,西塔政所(延暦寺学問所止観道場)
AM6:13
31,恵亮堂
恵亮和尚(801~860)を本尊として祀るお堂。
恵亮和尚は当時の比叡山で最も修力霊験に優れた僧で、西塔の興隆にも尽力した。
AM6:14
32,天台宗真盛派開祖の円戒国師(真盛上人)寿塔(寿塔とは生前墓のこと)と石仏
AM6:14
「樹之雫しきりに落つる暁闇の比叡をこめて啼くほととぎす」
AM 6:16
34,釈迦牟尼佛(おしゃかさま)、参道を下って左手。
AM6:16
35,仏足石(おしゃかさま入滅の際の足形)、釈迦牟尼佛の隣り
AM6:17
36,釈迦堂
西塔の本堂にして山内最古の建物。現在の釈迦堂は織田信長による比叡山焼き討ち(1571)後の文禄4年(1596)に貞和3年(1347)に建てられた園城寺(三井寺)の弥勒堂(金堂)を豊臣秀吉が移築し、手を加えたもの。
AM6:18
37,叡山学寮
釈迦堂の右手にある道を下っていく。
本覚院と呼ばれていた時代に若山牧水が泊まった場所。その後修行道場として使用されたが、現在は使用されず荒れている。
AM6:22
38,叡山学寮横の社
AM6:22
39,釈迦堂右手の涎掛け石仏。
AM6:26
40,平和地蔵菩薩
平成二十七年八月、第五十回「天台青少年の集い」を記念して建立された。
右手の上げた三本の指は「三つの誓い」を表している。
AM6:29
41,鐘楼
釈迦堂左手を上がったところ。
AM6:30
42,釈迦堂左手の宝篋印塔(ほうきょいんとう)
AM6:44
43,十一面観音菩薩
釈迦堂左手奥を上がったところ。
AM6:46
44,十一面観音菩薩右手の上り坂
AM6:47
45,十一面観音横の上り坂を上がったところ。
左斜め上へ行くと相輪橖、まっすぐに下ると弁才天、右横に行くと台風に被災して取り壊された居士林跡地、右手前に行くと弥勒石仏。
AM6:48
46,相輪橖
相輪橖の中には法華経、大日経など23部、58巻が納められている。
銘板から最初の建立が弘仁十一年(820)となっている。
相輪橖は本来は五重塔などの上で屋根を押さえる役割をするもの(西岡常一「木に学べ」より)だが、飛鳥時代から平安時代になりその役割が忘れられて装飾の意味合いが強くなり、このよう橖が建造されたのではないだろうか?
AM6:51
47,弥勒石仏
比叡山最古の石仏と言われる。
顔の半分が欠けているのは、信長の焼き討ちによる損傷と考えられている。
AM6:54
48,弁才天
AM6:56
49,弁才天横の道を上ると、奥比叡ドライブウェイに出る。
真っ直ぐに奥比叡ドライブウェイを渡ると、玉体杉のある峯道へと続く。
今回は瑠璃堂へと向かうため、ドライブウェイを左へ行き坂を下る。
AM6:59
50,奥比叡ドライブウェイを下ると右手に瑠璃堂へと続く道が見えてくる。
瑠璃堂の案内看板は無いため、「正教坊」と書かれた郵便受け?を目印にする。
後で調べたところ、瑠璃堂の奥にあるのが正教坊だそうです。
確かに人が住んでいる気配がありました。
AM7:04
51,瑠璃堂
西塔地域の外れにあるため、信長の焼き討ちを免れた現存唯一の建物。
以前は黒谷道(くろだにみち)と呼ばれる、瑠璃堂から黒谷青龍寺へと抜ける道が通っていましたが、現在は崖崩れのため閉鎖されているようです。
AM7:14
52,弁才天横を上がり、奥比叡ドライブウェイに突き当たった地点(49)に戻る。
左手に京都一周トレイルの案内板がある。
AM7:30
ここからが「峰道」
峯道の倒木。
AM7:34
53,峰道沿いには多くの石仏が並んでいる。
AM7:36
54,峯道途中から黒谷青龍寺へと向かう。
黒谷青龍寺は回峰行のルートには入っていない。
AM7:45
55,黒谷青龍寺への道沿い。
AM7:55
57,真盛上人供養塔。
天台宗真盛派開祖の真盛上人も黒谷青龍寺において修行し、念仏を日に6万遍唱えた。
AM7:56
AM7:58
この急な坂を下ると黒谷青龍寺
56,黒谷青龍寺
元山大師が開いた寺。
浄土宗の宗祖・法然が18歳から43歳まで25年にわたり修行した地。
AM8:01
青龍寺横の杉の大木と社
57,今度は急坂を上ります。
AM8:03
58,伝教大師尊像
峯道の青龍寺の案内板がある場所まで戻り、さらにその先の奥比叡ドライブウェイを渡ると峰道レストランがあります。こちらにはレストラン、売店、駐車場、バス停、トイレなどがあり、駐車場横に伝教大師尊像が建っている。
AM8:27
59,峰道レストラン展望台から見た琵琶湖。
こちらで持参の朝食と休憩をとります。
参考までに峰道レストランの営業時間は、9:00〜17:00(ラストオーダー16:30)
AM8:28
60,再び、峰道を横川方面へと歩きます。
AM9:10
61,玉体杉
AM9:14
回峰行者が行の途中で、唯一腰を下ろすことが出来る場所。
行者はこの蓮台石に座り、京都御所に向け玉体加持をおこなう。
玉体杉前から見た京都市街
62,横川中堂まで1.6km地点まで来ました。
ここを右に行くと横川地域。
AM9:21
63,奥比叡ドライブウェイ下の連絡道。
AM9:22
奥比叡ドライブウェイ下の連絡道を通り、さらに20分ほど山道を歩くと、横川地域に到着します。
今回はここまでにして、次回は横川地域と坂本地域の写真です。
AM4:54に延暦寺会館をスタートして、ここまで約4時間半。
「千日回峰行」(2/2)(動画)
すっかりご無沙汰してしまいましたが、千日回峰行のつづきを書きたいと思います。
まずは千日回峰行山上山下のルートです。
千日回峰行山上山下には二種類のルートがあります。
一つは「無動寺回峰道」、もう一つは「飯室回峰道」で、現在一般的に使われているのは無動寺回峰道です。
飯室回峰道は千日回峰行を二度満行した酒井雄哉大阿闍梨が二度目の回峰行で回ったルートです。
飯室回峰道は飯室谷を開いた第三代天台座主慈覚大師円仁がおこなっていた叡山巡拝を基本とした行道ですが、天正18年(西暦1590年)以来、途絶えていました。
昭和18年、大切に保管されていた「手文」を頼りに、待望されていた飯室回峰道の百日回峰を箱崎大師が満行します。
そして「師資相承」にのっとって酒井雄哉大阿闍梨が飯室回峰道の千日満行を託され、昭和62年、二千日回峰を満行します。
前回の記事でも書きましたが、一般的な飯室回峰道でも「不慣れな人間が歩くと遭難する危険がある。」と山を良く知る地元の方に言われましたので、私が正式な回峰道を歩くのは当然無理。
そこで横川から坂本へと下る道は、最も安全と思われる大宮川沿いの大宮谷林道を通ることといたしました。
また飯室回峰道の場合、出発は無動寺谷明王堂となりますが、私は東塔地区にある延暦寺会館に宿泊しておりましたので、延暦寺会館からスタートし本坂(ほんざか)を上がって延暦寺会館へ戻るという、かなり変則的なものとなりました。
ルートをおおまかに書くと・・・
延暦寺会館 ー 東塔 ー 西塔 ー 峰道 ー 横川 ー 大宮谷林道 ー 坂本 ー 本坂 ー 延暦寺会館
となります。
途中、千日回峰行では参拝しない黒谷青龍寺なども参拝したため、結果的には無動寺回峰道とほぼ同じ距離の約28kmほどを1日で歩きました。(時間は行者の2倍ほどかかっていますが・・・。)
なお酒井雄哉大阿闍梨が満行した飯室回峰道は、無動寺回峰道よりもさらに10km程長い全長約40kmとなります。
次回は、私が参拝した堂塔などの写真を時系列で紹介いたします。
「千日回峰行」(1/2)(動画)
先日、比叡山に行ってまいりました。
比叡山といえば、伝教大師最澄さまが開いた日本天台宗の総本山延暦寺があります。延暦寺は東塔、西塔、横川の3つの地区の総称で、東塔地区に延暦寺の中心となる根本中堂(現在改修中)があります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%B6%E6%9A%A6%E5%AF%BA
延暦寺といえば厳しい修行で有名ですが、その中で最も有名なものはやはり千日回峰行でしょう。
千日回峰行の概略です。
1年目 100日 (山上山下)
2年目 100日 (山上山下)
3年目 100日 (山上山下)
4年目 200日 (山上山下)
5年目 200日 (山上山下)
6年目 100日 (赤山苦行)
7年目 200日 (大廻り100日、山上山下75日)
1年目から5年目までの礼拝コースを比叡山山上山下といい、比叡山の3塔全域と山麓坂本の日吉大社等を巡る7里半(約30km)。
1年目から3年目は毎年3月下旬から100日づつ、4年目、5年目は毎年200日づつを行道礼拝する。
また100日ごとの75日目に京都の神社仏閣を巡る「切り廻り」が行われるが、これは1日だけ化他行が許されるというもの。
本来は500日満行までは自利行のため人のために加持をする化他行は許されない、500日を満行すると「白帯行者(びゃくたいぎょうじゃ)」となり化他行が許される。
「自利行(じりぎょう)」と「化他行(けたぎょう)」とは
「自利行」は行者自身が仏に近づくための修行、「化他行(けたぎょう)」は「加持(かじ)(人のためにあげるお経)」をするなど、人のために行う修行。
堂入り
5年目700日を満じた時点で、死を賭しての大苦行「堂入り」に臨む。
無動寺明王堂に籠もり、9日間、断食、断水、不眠、不臥で不動明王の真言を十万
遍唱える。
満行後は「当行満」と言われ「阿闍梨」と称される。
自利行を終え、以降は衆生済度のため京都のの町まで足を延ばし、化他行の実践に入る。
赤山苦行
6年目は山上山下に加え、雲母坂を下り京都市左京区修学院開根坊町の赤山禅院まで足を延ばす十五里(約60km)の行程を100日間、行道礼拝する。
大廻り
7年目は大廻りを100日間行う。
大廻りとは、山上山下に加え赤山禅院から京都市内の神社仏閣を礼拝する一日二十一里(約84km)にも及ぶ、想像を絶する大行であり「最極の行道」と呼ばれる。
「大廻り」に引き続き、山上山下の行程を75日間おこなって一千日満行となる。第千日を満行すると「大行満」「大阿闍梨」と尊称され、京都御所で玉体加持の儀(土足参内)を行う。
・九百七十五日をもって千日とする理由。(光永覚道大阿闍梨「千日回峰行」より)
回峰行というのは満じてはいけません。
(中略)
要するに完全にやり切ってしまう前のかたちでやめて、それで日々積み重ねていく修行です。
(中略)
九百七十五日をもって千日と数え、二十五日残ってしまうわけです。
二十五日を一生かけて行じないといけません。
対外的には千日終わりましたよと公表するのですが、本人は終わっていないというかたちを作ります。
要するに終わってしまったら次の修行ができなくなってしまいます。
ということだそうです。
youtubeにも、千日回峰行の動画がいくつかupされていますので御紹介。
上原行照大阿闍梨
釜堀浩元大阿闍梨
次回は、私が回ったルートを御紹介。
「一部の行者道は、不慣れな人が歩くと遭難の危険がある。」と釜堀浩元大阿闍梨の京都切り廻りの随行をした経験がある方に言われましたので、一部は行者道、一部は他のルートを歩いて、東塔→西塔→横川→坂本→東塔と一日かけて回りました。