「オステオパシーの源流は日本?(番外編-各務文献その1)」

オステオパシーの源流は日本?」のシリーズは結局、A・T・スティルは

二宮彦可の生まれ変わりである、という結論で幕を閉じましたが、(いいのか

それで!?)、実は第1回目ではスティルが参考にした人物の可能性として

二宮彦可の他に、各務文献(かがみ ぶんけん)というもう一人の江戸時代の

整骨医の名前も挙げました。

過去記事はこちら↓

  「オステオパシーの源流は日本?」



この二人について調べた結果、二宮彦可の正骨術がよりオステオパシー

近いという結論になったわけですが、せっかく調べたものをお蔵入りに、

してしまうのも勿体ないので、今回は各務文献について書きます。

各務文献(1755~1819)の家は代々、播州赤穂藩浅野家の家臣でしたが

元禄時代に主家が、忠臣蔵で有名な浅野内匠頭による吉良上野介への

切り付け事件により断絶した後、大坂の横堀に移り住みました。

文献は宝暦五年(1755年)、横堀で生まれています。

ちなみに二宮彦可の生没年は1754~1827年、スティルの生没年は

1828~1917年です。

医学の道を志した文献は初めは古医方を学びましたが、多くの古医書

「空言虚論」に満ち、実際の役には立たないと知ります。

そこで、産科ならば実際に手指で触れて経験するので空言虚論は少ないだろう

と思い、彼は産科に転じます。

文献は産科に転じてから、遏崩(あっぽう-子宮出血の予防や治療)や救癇

(子癇の治療)などの方法を創意し、「救産器械八種」を発明したものの、

難産を救う要は当時はただ一つ、賀川玄悦(注1)が発明した一活鉤(鉄製

鉗子)だけであり、この方法では賀川玄悦を越えられないと感じます。

文献は産科にも行き詰まり、かねてから関心を持っていた整骨術に専念しようと

考えます。


(注1)

賀川玄悦は江戸時代の医師。産科医として多くの臨床体験を積む中で、母子を

共に守る目的で出産用の鉄製鉗子を発明するなど産科医療の発展に尽くした。

胎児の正常胎位(胎児が母体中で頭を下にしていること)を世界に先がけて発見

したことでも知られる。 (ウィキペディアより)





各務文献が産科医から整骨医へと転身するいきさつについては、郡順史氏の著書に

書かれていますので、まずはその一部の抜粋を読んでください。




前半部分は省略



(以降、産科に転じて間もない各務文献が、逆子のの出産に立ち会った際の記述)


が、この時、文献は一つのヒントを得ていた。

夫人の股関節ならびに腰骨(骨盤)、背骨にどうも異常があるように思え、

それが逆子の原因となったのではないか、と推測したのである。

もしもそうであるならば、産科的対応処置よりも、根本的に骨の位置を

正すのが先決ではないか、と考えた。

文献はこの事を先輩にたずねた。

先輩は、「面白いところに着目したが、しかしそんなことは教科書には

書いてないからな。」

と小首をかしげ、あまり興味を示してくれなかった。



中略



それから10年後、横座の出産に立ち会った各務文献。

横座とは胎児が胎内で横になってしまったもので、正常な出産はなり難く、

死亡率も非常に多い、難産中の難産である。

文献は産夫の腰骨や股関節などをまさぐっていて、「あっ」と心の中で叫んだ。

十年前、はじめての産婦に接した時の産婦の骨位と、この産婦の骨位の

ゆがみの異常性が同様である、と知ったのである。

この骨位のゆがみを正せば、或いは救えるかもしれぬ。

それは一種の賭けに似た冒険であった。

が、文献は自分の女医者(産科、婦人科医)としての全てを、その賭けに

ゆだねた。

その結果、ともあれ時間と労力は費やしたが、産婦は難産の果て、生命を

失うことなく、男子を産むことが出来たのだった。


中略


確かに文献は、これらの実践を表看板にして女科を続けていれば、賀川玄悦と

まではいかないまでも、相当な位置にのぼりつめることが出来たかもしれない。

だがこの時点で、すでに文献の視線と志は、ほかに向いていた。

それは正骨術である。

人間の健康の根本は骨格の正しさにある。

つまり骨が、あるべき個所に正しくあれば、人間は病気をすることもなく、

健康な日常生活をおくれるのではないか、病気に冒された場合は、その患部に

当たるところの骨を正せば、病気も全治するのではないか、という発見と認識

であった。

私は正骨を極めてみよう。

文献はそう決意したのである。

時に寛政五年(1793)三十八歳であった。


中略


それにしても、産婦人科の文献の友人知人たちは、急の文献の正骨術への

転業に驚き、あきれた。

そして中には、

「なぜそんな馬鹿馬鹿しいことをするのだ。損ではないか。」

と忠告するものもいた。

女医者として中堅ほどの地位をしめ、前途も明るくひらけてきたというのに、

その努力も地位も収入も捨ててなぜ今頃になって正骨科などへ転向するのだ、

と不思議でならなかったのであろう。

それに対して文献は、

「正骨術は、人間の身体の根元を成すものと気づいた。医学を志す者として、

この発見から眼をそらす事は出来ない。」

と簡単に答えている。



以降省略



以上が郡順史の著書に書かれていた内容の概略です。

郡順史氏は、この記述の最後に資料提供先として、都内にある某鍼灸院の名前を

あげていました。

私はその資料について詳しく知りたいと思い、その鍼灸院に連絡を取ってみましたが

院長の話では、郡順史氏(故人)は生前に、その鍼灸院に通っていたそうですが、

その鍼灸院には各務文献に関する資料は無く、院長自身が各務文献の名前を

私から初めて聞いたと言っていました。

郡順史はすでに故人のため、その真相はわかりません。

しかし国会図書館に行って、各務文献に関する資料をかなり調べてみましたが、

上記のような内容の記述は、どこにも見当りませんでした。

私の推測では郡順史氏の著書の内容は、各務文献の著書「整骨新書」の記述を

もとに郡氏が創作したものではないか、と考えています。

「整骨新書」の自序の部分には、確かに以下のような記述があります。

「妊婦は数日間横産(横座)となり胎盤も下りない。」

「系絶やす」と文献は記しているので、胎児は亡くなったのかもしれません。

しかし文献は、

「余は皆これを救い、恙なからしむを得たり」と難産でも全ての母体を救ったと

述べています。

下の写真は、その記述がある部分です。

f:id:hakusanoste:20190505122007j:plain



 



一回で終わらせる予定が長くなってしまったので、もう一回書くことにしました。

つづく。