「オステオパシーの源流は日本?(番外編-各務文献その2)」

では、前回からのつづきです。 産科医から整骨医への転身を決めた各務文献は、整骨術を難波村の年梅某に 教わろうとしましたが、整骨術は秘伝であるとして、それを断られてしまいます。 そこで文献は、驚きの行動に出ます。 文献の住居は島之内の住屋町にあり、家の裏手には西横堀川が流れていました。 これを下ると木津川に入り、葭島刑場(今の大阪市大正区今木1丁目にある難波島) に着きます。 文献は夜になると度々妻と共に刑場に忍び込み、打ち捨てられている罪人の屍骸を 小舟に乗せて西横堀川をさかのぼり、自宅の裏庭に密かに上げて床下に隠しておき、 筋を解き、臓腑をひらき、骨骼の状況を詳しく研究したというのです。 このあたりは人体の構造を知るために、ネイティブ・アメリカンの墓を掘り起こし、 隠れて解剖していた、A・T・スティルを彷彿とさせます。 さらに寛政十一年(1800年)四月二十五日、46歳になった文献は葭島刑場で 行われた、蘭学社中による女刑屍解剖にも参加しています。(ちなみに日本で最初の 人屍解剖は宝暦四年(1754年)に、山脇東洋が行っています。) この解剖には他に、大坂の伏屋素狄、大矢尚斎、斉藤方策、中天游らが参加しており 人体構造を究明しただけでなく、墨汁を使って腎臓の濾過機能を調べた画期的な 業績として知られています。 この時、文献らは「婦人内景之略図」、一巻を遺しました。 下の写真は、「婦人内景之略図」から腎臓の血管に墨を入れ、尿管から沪過液が 出るのを実証した図です。

更に文献は、当時の日本では社会的に医師でも、人骨の実物を所持することが 許されていなかったために、門人の教育と自らの研究を目的として、木製の骨格模型 「各務木骨」も製作しています(文献自身は「模骨」と命名)。 木製骨格模型といえば広島の医師、星野良悦が1792年(寛政4年)に世界最初の 木製人体骨格模型「身幹儀(星野木骨)」を製作していますが、文献の木骨は良悦の 身幹儀を凌ぐほどの精巧さで作られています。 幕府医学館に献納された「身幹儀(星野木骨)」が、江戸の大火で焼失してしまった ことを知った文献は、この木骨を文化二年 (1819年) 幕府医学館に献納し、その後 西洋医学所において保存、さらに東京大学医学部に引き継がれました。 左右の鼻の孔を仕切っている鼻中隔は薄い銅板で細工し、 歯は蝋石を用いるなど 随所に細かい工夫が施されています。 現在は東京大学総合研究博物館が所蔵しており、実際に見学することもできます。

38歳で産科医から整骨医へと転身した文献は、文政二年(1819年)十月十四日に 65歳で亡くなるまでに、多くの功績を遺しました。 文献は骨関節の運動機能の理を極め、実際に適用できる種々の器械を発明して、 治療の成績をあげ、また副木や繃帯術についても新しい知見を導入しました。 さらに文献は、骨折、脱臼などの整復をする際に、患者の苦痛を和らげるために、 自らマンダラゲと白蛇の二味から「麻睡散」という処方をつくり、全身麻酔に よる治療法を確立しています。(なお全身麻酔手術に関しても、1804年に 華岡青洲が乳癌手術の際に行ったものが、世界初となっています。 前回と今回とを合わせると、世界で初という言葉が三度も出てきます。 こうしてみると江戸時代の日本の医師達が、いかに医術というものに真摯に 取組み、かつ独創性を持っていたか、ということが良くわかります。) 文献はその研究と実験の成果を、文化七年(1810年)に「整骨新書」(全3巻) として刊行します。 では今回はここまでにして、次回は二宮彦可の「正骨範」との比較も交えながら 各務文献の「整骨新書」の内容を、紹介していきたいと思います。
                                     白山オステオパシー院長