「回峰行のようなもの」(2/3)(動画)
今回は横川(よかわ)地域、大宮谷(おおみやだに)林道までの写真です。
まずは前回も載せた全体地図と千日回峰行のルートを再度掲載。
さらに大宮谷林道と本坂が載っているマップをネット上で見つけましたので、こちらも載せておきます。
次に横川地域の紹介。
・横川地域
横川地域マップ
横川地域航空写真
では前回からの続き。
64,横川入り口
AM9:47
65,龍ヶ池辯財天
龍ヶ池(たつがいけ・別称は赤池)は元三(がんざん)大師が大蛇を封じ込めたと言われている。その後大蛇は弁財天に仕え、横川を訪れる人々の安全と心願成就を助力するようになった(比叡山七不思議の一つ)。
AM9:56
66,三十番神
日蓮宗の宗祖・日蓮聖人が横川定光院にて修行中、日蓮聖人を励ますために現れたのが法華経守護の三十番神。
AM10:04
67、根本如法塔(こんぽんにょほうとう)
慈覚大師円仁が法華経八巻を書写したものを納めるために建てられたのがはじまり。
信長の焼き討ちにより消失し、現在の塔は大正14年に建てられた。
AM10:06
68,千手観音
龍ヶ池から根本如法塔へと向かう途中。
未確認ですが、こちらも西国三十三箇所霊場の石仏の一つだと思います。
穏やかなお顔でした。
AM10:07
69,横川中堂
慈覚大師円仁が入唐求法の旅より帰国後、嘉祥元年(848)に建造。
その後は信長の焼き討ち、昭和17年の雷火など消失、再建を繰り返し、現在の建物は昭和46年(1971)、伝教大師1150年大遠忌の際に復元される。
AM10:08
70,赤山宮
横川中堂の向かい側。
赤山宮の解説は、駒札写真を参照してください。
AM10:11
71,一念寺跡
赤山宮の右側。
横川中堂の政所跡。
明治後期に高浜虚子がこの地に籠り、小説「風流懺法」を書いた。小説の中の小僧一念からとって名付けられた(石碑の横に彫られていた説明)。
AM10:12
72,逆修爪髪塔
横川中堂から坂を上ると左手。
横川をこよなく愛した俳人高浜虚子の生前墓、1953年10月建立。
「逆修」とは死後33年かけて修行するものを、生きているうちにおこなうこと。
虚子没後に遺骨が分骨された。
AM10:23
73,鐘楼
逆修爪髪塔からさらに上ると正面に見える。
横川中堂から鐘楼までの道沿いには西国三十三箇所霊場の石仏が数多く並んでいます。
AM10:25
74,元三大師御廟(がんざんだいしみみょう)
龍ヶ池のある道まで戻り、山を左手にあがると慈恵(じえ)大師良源(元三大師)の墓所。
ちなみに伝教大師最澄の墓所は御廟(ごびょう)、元三大師の墓所は御廟(みみょう)と読み方が違います。
AM10:36
元三大師御廟拝殿
御廟はこの裏手。
AM10:37
御廟入り口
AM10:39
比叡山三大魔所の一つで最大の魔所と言われる元三大師御廟。
飯室谷不動堂のサイトによると残る二つは天悌峰と飯室谷・慈忍御廟、しかし天悌峰の場所が分からずに探した結果、「偲フ花」というサイトにたどり着きましたのでこちらをご覧下さい↓
飯室谷不動堂のサイトによれば、魔所とは恐ろしい場所という意味ではなく、清浄地であることより、身を慎み殺生などをしてはいけないという地だそうです。
石柱だけの墓は、良源が遺言により立派な墓を作ることを禁じ、墓所は荒れるに任せるように、と言ったため。
この墓所の奥は切り立った崖で京都の北東の末端に当たり、京都の鬼門に当たる比叡山の、そのまた鬼門に当たる横川の、更にその最も鬼門に当たる場所に位置する。
要するにこの地は鬼門中の鬼門であり、魔なるものを封じる最前線ともいうべき場所。
この墓所を見ると、元三大師の人柄が伝わってきます。
75,弥勒石仏
元三大師御廟から定光院へと向かう分岐点。
AM10:45
76,定光院へと向かう急な下り道。
AM10:48
77,定光院と日蓮聖人
定光院は日蓮宗の宗祖である日蓮聖人が12年間修行された場所。
この地は横川の中でも最も奥にあり急な坂を往復しなければならず、訪れる人もわずかです。
私が行った際も私以外には誰もおらず、現在の定光院主任で岐阜県のお寺から来ている高橋教行上人としばしお話させていただきました。
定光院の主任は本来は3年で交代となるそうですが、辺鄙なところで冬の寒さも厳しく、なり手がいないため高橋主任はすでに7年間この地にいるそうです。
日蓮聖人
AM11:02
定光院
建物の写真を撮り忘れてしまったため、こちらのサイトの写真を使用させていただきました↓
https://kuraryoko.com/kyoyokaw.html
私がお話させていただいた現在の定光院主任・高橋教行上人の動画がありました。
78,定光院境内の社
AM11:14
79,比叡山行院道場
全国から集まってきた僧侶が修行する場で、一般人は立ち入り禁止。
このときも読誦の声が院内から聞こえていました。
AM11:21
80,甘露山王社(現在修繕中)
甘露とは観世音菩薩が衆生を救うために降らす甘い雨のことだそう。
AM11:22
81,箸塚辨財天
東塔の無動寺弁財天、西塔の箕淵弁財天とともに延暦寺三大弁財天の一つ。
良源が千僧供養(1000人の僧に供養すること)をおこなった際に使用した箸が埋められ、弁財天が祀られた。
AM11:26
82,元三大師堂(四季講堂)
慈覚大師円仁が開いた横川をさらに発展させたのが第十八代天台座主慈恵大師良源(元三大師(がんざんだいし))。
元三大師堂は良源の住居跡とされ、四季に大乗経を論義する「四季講」が始まることから四季講堂とも呼ばれる。
良源は入滅の日が元日3日であったことから元三大師と呼ばれる。
元三大師堂はおみくじ発祥の地としても有名。
元三大師堂は執事(しゅじ)と呼ばれる住職が三年の任期で守っている。
ここでの生活は「看勤地獄」と呼ばれ、無動寺谷の「回峰地獄」、浄土院の「掃除地獄」とともに延暦寺三大地獄の一つ。
AM11:27
時代劇で京都の町家などの入り口に貼られている「角大師」もこちらが発祥の地。
永観二年(984)、京都に疫病が流行した際に良源が疫病神の退散を祈願、鏡の前で禅定に入ると、あばらが浮き出て角の生えた鬼の姿に。
弟子達がその姿をお札に刷り家々の戸口に貼ってまわると、疫病は終息した。
私が元三大師堂に伺った時には、ちょうど渡邊惠淳執事による不動明王への護摩行が始まったので私も後ろで祈願させていただきました。
すると執事は護摩行の最後に私の方へと振り返り、加持をしてくださいました。
ありがたいことです。
私に加持をしてくださった渡邊執事が比叡山の三年籠山行に入ったときの動画が、youtubeにupされていました。
今から15年前の映像です。
動画内の渡邊惠淳さんが、現在の元三大師堂執事です。
そしてもう一人の武円超さんは、僧侶という立場で現在は延暦寺管理部において根本中堂改修工事の現場責任者をしておられます。
一度はエンジニアを目指して理系の大学で学ばれた武円超さん、やはり人生に無駄なことはないということですね。
お二方ともとても立派になられました。
83,道元禅師得度の地
元三大師堂前の谷を下ったところ。
12:38
84,恵心堂
浄土教の素地をつくった恵心僧都源信が初めて念仏三昧修行をしたお堂で、念仏三昧修行の道場として知られる。
元三大師堂から鐘楼方面に坂を上がった先。
12:45
85,海軍通信学校戦没者慰霊の碑
恵心堂から更に先に進むと右手。
碑文の一部
昭和16年5月1日、全国より海軍に志願した「海軍通信学校第58期生、千三百有余名、翌17年3月卒業、僅か16,7歳の年少兵ながら祖国の危機を救わんの赤誠に燃え、太平洋戦争の激戦地に赴く
酷寒の北洋に南溟の涯遠く、勇戦奮闘、悲しき哉
五百有余名の若き魂国に殉じ敗戦に終わる
12:48
86,元三大師の御燈明(みあかし)
御燈明とは神仏の前に供える灯火のこと。
このまま真っ直ぐに進むと横川行者道ですが、今回は大宮谷林道を通って坂本へと下るのでここで引き返します。
12:51
87,大宮谷林道へ
横川入り口方面へと戻ると写真のような建物が有り、その裏を左手へと行くと大宮谷林道への入り口。
13:01
ここからの数枚は大宮谷林道の写真。
13:16
林道の左手には大宮川。
13:16
ここまでで最も歩きやすい道でした。
13:32
あちらこちらで斜面が崩れている。
13:40
この写真は崩れた岩を通りすぎてから撮ったもの。
道路は麓の坂本に向かって左手が大宮川、右手が崖。
13:53
この先はどこに行くのでしょう?
千日回峰行の飯室回峰道では大宮川を渡る場所があります。
酒井大阿闍梨の映像では丸太を渡しただけでしたので、この場所かどうかは定かではありません。
13:55
途中の案内板。
14:12
ここで大宮谷林道が終わります。
今回で終了の予定でしたが、坂本と本坂は次回にすることといたしました。