「神との友情」(2/5)
2日後、最後に残った数ドルをかき集めて、サザン・オレゴン行きのバスの切符を買いました。
別れた妻のひとりが、子供3人と暮らしていたんです。
彼女に助けてくれ、なんとか立ち直るまで、あいた部屋に数週間泊めてくれないか、と頼みました。
断られましたよ。
あたりまえですが。
もうほかに行くところがないんだ、と言うと、彼女は言いました。
「テントとキャンプ用品を使ってもいいわ」
そんなわけで、オレゴン州アッシュランド郊外にあるジャクソン・ホット・スプリングズの中央の広場にたどり着いたってわけです。
そこでは週に25ドルでキャンプさせてくれるんですが、その金がわたしにはなかった。
管理人に金をかき集めるまで数日待ってくれないか、と頼み込んだらびっくりしていましたよ。
公園は放浪者で満員で、それ以上は入れたくなかったんでしょうが、彼は話を聞いてくれました。
火事のこと、交通事故で首を痛めたこと、車を盗まれたこと。
信じられないほどの不運の連続に気の毒に思ったんでしょうね。
「よし、数日待ってやろう。どうにかできるか、やってくるといい。あそこにテントをたてな」
そう言ってくれたんです。
わたしは45歳で、もう人生は終わりだと感じていました。
放送界で専門職として良い給料をとり、新聞の編集長になり、全国でも有数の学校システムで広報を担当し、エリザベス・キューブラー・ロス博士の個人アシスタントを経験したのに、道路や公園でビールの缶やソーダの空き缶を拾い、1個あたり5セントの返金を稼ぐまでに落ちぶれたんです(空き缶20個で1ドル、100個で5ドル、500個拾うと、キャンプ料金になりました)。
あそこで過ごした1年近くのあいだに、路上生活にだいぶくわしくなりました。
実際には路上生活をしていたわけではありませんが、すれすれの暮らしですからね。
道路や橋の下や公園の暮らしにも規範があると知り、世間の人びとも同じ規範を守れば世界が変わるだろうと思いましたよ。
その規範というのは、助け合うということです。
宿なし生活を数週間も続けると、同じ境遇のひとたちと知り合いになります。
個人的なことはべつですよ。
誰もどうしてそんな生活をすることになったか、なんて聞きはしません。
だが、困っていれば、屋根の下で暮らしているひとたちのように知らん顔はしません。
足を止めて、「だいじょうぶかい?」と聞いてくれます。
最後に残った乾いた靴下をくれたひとも、こっちがその日の「ノルマ」を果たせなかったと知って、半日歩きまわって缶を集めて得た金をくれたひともいました。
誰かが(通行人に5ドルか、10ドル恵んでもらう、というように)大儲けをすると、キャンプ地に戻ってきてみんなに食べ物をふるまうんです。
最初の晩、寝場所をつくろうと奮闘していたときのことを覚えています。
着いたときは、もう薄暗くなっていました。
さっさとすませなければならないのはわかっていましたが、テントをたてた経験がそうあったわけじゃなかった。
風が強くて、雨も降りそうでした。
「あそこの木の下にしな」どこからともなく、しゃがれ声が聞こえてきました。
「それから、あの電柱にロープを張るんだ。ロープに印、つけとけよ。夜中にトイレに起きたとき、自分の首を吊らんようにな」
小雨が降りはじめました。
気づいたら、二人でテントをたてていましたよ。
名前も知らないその友人は、必要以外の口はきかず、「ここに杭を打たんと、な」とか「入り口のシートは上げといたほうがいい。寝てるまに水びたしになる」などと言うだけでした。
テントができあがったとき(ほとんどの作業は彼がやってくれたんです)、彼はカナヅチを地面に放り出し、「これでいいだろ」とつぶやいて、行ってしまいました。
「ありがとう、助かったよ」私はその背中に声をかけました。「あんた、名前は?」
「そんなことはどうでもいいよ」彼は振り返りもしませんでした。
それっきり、彼に会ったことがありません。
つづく。