「多数決」(動画)

最近の身近な出来事から、amazarashiの「多数決」という楽曲の歌詞を思い出しました。

現在のこの世界で生きていくということは、誰にとってもなかなか大変なことです。

 

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多数決

作詞・作曲:秋田ひろむ

 

臆病者ほど人を傷つけると言うなら 一番臆病なのはこの世界なのかもしれない

優しい奴ほど背中を丸めて歩く 腹いせにこの都会を踏んづけて歩く

 

時代は変わっていくのではなく吹きすさぶのだ 向かい風に逆った奴らは行っちまった 

息を止めた憐れな孤独の悲しみ共 空元気が繁華街に反響して空虚

 

価値観も善悪も 多数決で決まるなら 

もしかしたら 生まれる場所を間違えたのかもな

もういいよ いいよ この部屋は世界の隅で

機会を今かと、窺うには丁度いいかもしれない

賛成か 反対か 是非を問う 挙手を願う

 

多数派が少数派に面倒を押し付ける 持つ者は持たざる者を食い物にしてる 

強い者が弱きを挫いて溜飲を下げ 都会は田舎をゴミ捨て場だと思ってる

 

人類最後の解決法が戦争だけなら 進化論も当てにはならなかったみたいだ

その実、知恵のある振りをした獣だから 空腹もこれ以上無い動機になりえた

 

違和感も常識も 多数決で決まるなら

もしかしたら当たり前も もう疑うべきかもな

もういいよ いいよ この町は忘れ去られた

良からぬ事を企てるには丁度いいかもしれない

賛成か 反対か 是非を問う 挙手を願う

 

札束の数 名誉の数 友達の数  勲章の数 

勝ち越した数 賞状の数 努力した数 褒められた数 

僕らの価値は数字じゃない

自分の評価を人に任せる訳にはいかない

世界は移り変わる 昨日の価値は今日の無価値

 

罪悪も合法も 多数決で決まるなら

もしかしたら百年後は もう全員罪人かもな

もういいよ いいよ この世界は壊れすぎた

白紙から描き直すには丁度いいかもしれない

賛成か 反対か 是非を問う 挙手を願う

 

 

 

「神との友情」(5/5)

キャンプ道具を引きずって公園に行ったあの日を祝福します。

あれは人生の終わりではなく、はじまりだったんですから。

あの公園で忠誠心と誠実さ、真摯さ、信頼、そして簡素さや分かち合い、生き延びるということを学びました。

逆境にあっても決してあきらめず、そのときその場の真実を受け入れ、感謝することも学びました。

学んだのは映画スターや著名な作家からだけではなかったんです。

友達になってくれたホームレスのひとたちや、毎日会うひと、人生で出会ったひとたちからも学びました。

郵便配達人、食料品店の店員、ドライクリーニング店の女性。

 

誰もが何かを教えてくれる。

何かを贈り物として与えてくれる。

そして、誰もがあなたから贈り物を受けとる。

これが、偉大な秘密だよ。

あなたは彼らにどんな贈り物をしただろう?

迷って誰かを傷つけたと思っても、それが贈り物ではないと思わないように。

それも大きな宝物だったかもしれない。

あなたの公園での生活のようにね。

あなたは、いちばん楽しかったことよりも、最大の苦しみから大きなことを学んだのではないかな? とすれば、あなたの人生で誰が悪人で、誰が犠牲者だろう。

それを経験のあとではなく、前にはっきりと見ぬければ、ほんとうに<マスター>になれる。

貧窮と孤独の日々は、あなたの人生が決して終わっていないことを教えてくれた。

人生が終わりだなんて、絶対に考えてはいけない。

毎日が、毎時間が、毎瞬が新たなはじまりで、新たな機会で、新たに自分自身を再創造するチャンスだということを忘れないように。

最後の瞬間、死のときですら、それを実行すれば、あなたの人生経験のすべてが正当化され、神の前で栄光に包まれる。

あなたが凶悪犯であっても、死刑囚房にいる殺人者でも、刑執行を目前にした犯罪者でも、その真実は変わらない。

このことを、知っておきなさい。

信じなさい。

真実でなければ、わたしはこうは言わない。

 

 

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「神との友情」(4/5)

 

電話ボックスを出たわたしは、文字どおり飛びあがって歓声をあげましたよ。

たまたま、二人の人間が通りかかり、ひとりが言いました。「いいことがあったようだな」

「仕事が見つかったんだ!」わたしは叫びました。

二人は本気で喜んでくれました。

「どんな仕事だい?」ひとりがたずねました。

「週末のディスクジョッキーだよ!3時に面接なんだ」

「その格好でか?」

わたしは自分の格好を考えていなかった。

髪は伸びほうだいだが、そっちはまあ問題ないだろうと思いました。

アメリカのディスクジョッキーの半分はポニーテールですから。

だが、服のほうはどうにかしなければならなかった。

キャンプ場にはコインランドリーがありましたが、洗剤を買って洗濯して乾かしたものを身につけ、さらにメッドフォードまで往復するだけの金がなかったんです。

そのとき、自分がどれほど貧しいか、やっと気づきました。

町に出て面接を受けるという基本的なことすら、奇跡でもなければできないんです。

わたしがぶつかったのは、ホームレスのひとたちが自分で稼ぐふつうの生活に戻ろうとするときに立ちはだかる障壁でした。

二人はわたしを見て、何を考えているかを読みとったようでした。

「金、ないんだな?」ひとりが、ちょっとばかにしたように言いました。

「2ドルくらいかな」それでも過大評価かもしれない、と思いましたよ。

「わかった。来なよ」

わたしは二人について、テントが集まっているところへ行きました。

「彼には、ここから出るチャンスがありそうなんだよ」二人は友人に説明し、それから何かささやきましたが、わたしには聞こえませんでした。

それから、年かさのほうがわたしを見て言いました。

「あんた、何かまともな衣類をもってるか?」

「ああ、ザックの中にあるが、汚れてる。すぐに着られるものはないんだよ」

「それ、もってきな」

戻ってみると、見たことのある女性が加わっていました。

彼女は公園のあちこちに停めてあるトレーラーのひとつに住んでいたんです。

「それを洗って乾かしてくれば、アイロンをかけてあげるわよ」

彼女は言いました。

男たちのひとりが進み出て、じゃらじゃらとコインの入った茶色の紙袋を差し出しました。

「みんなで集めたんだ。コインランドリーに行ってきな」

5時間後、わたしは長髪に目を輝かせ、町中のアパートからやってきたような姿でラジオ局に現れたというわけです。

そして、職を得ました!

「1時間6ドル25セント、1日8時間です」と編集長は言いました。

「こんな仕事で悪いんだが、いま空きがあるのはそれだけでね。あなたにはたぶん役不足だろうから、断ってくれてもかまいませんよ」

週に100ドル!週に100ドル稼げるんです。

月に400ドルになる。

当時のわたしにとっては大金でした。

「いやいや、いまはそれくらいがちょうどいい」わたしは軽い調子で答えました。

「ラジオの仕事は好きなんですが、いま、ちょっとべつのことにかかってましてね。腕を錆びつかせない程度の仕事がしたいんです。楽しみですよ」

嘘ではありませんでした。

楽しみだったんですから。

生き延びられる楽しさです。

それから2か月、テント暮らしを続けて金を貯め、63年型のナッシュ・ランブラーを買いました。

百万長者になった気分でしたね。

キャンプ場で車をもっているのはわたしだけだったから、気前よく貸しましたよ。

みんなから受けた恩は決して忘れませんでした。

11月、だんだん寒くなってきたので、週に75ドル払って、公園にある小さなワンルームのキャビンに移りました。

友だちを外に置き去りにするのは心苦しかった。

それだけの金をもっている者はほかに誰もいなかったですから。

それで、とくに寒い日や雨の日には、一人、二人を招いて泊めました。

順番にして、悪天候からのがれるチャンスがみんなにまわるようにしました。

いつまでもパートタイムで終わるのかと思いかけたころ、突然べつのラジオ局から午後の番組をやらないかと申し出を受けました。

ウィークエンドの番組を聞いて気に入ってくれたんです。

だが、メッドフォードのラジオの市場はそう大きくはありませんから、最初の給与は900ドルでした。

それでもまたフルタイムで働き、キャンプ場から出られます。

キャンプ場暮らしは9か月でした。

あのときのことは決して忘れませんよ。

 

 

つづく。

 

 

 

「神との友情」(3/5)

公園での暮らしはとても単純でした。

最大の問題(最大の望み)は、暖かくして濡れずにいること、それだけです。

昇進も望まなければ、「女の子と知り合いたい」と思うことも、電話代で気をもむこともないし、これからの人生で何をすればいいかと悩むこともありませんでした。

雨が多かったし、3月の冷たい風が吹きすさんでいたから、とにかく身体を濡らさず、暖かくしていようとがんばるしかなかった。

ときには、どうすればそんな生活から脱出できるか考えることもありましたが、それよりも、どうすればこの生活を続けられるかのほうが大問題だったんです。

週に25ドル稼ぐのは容易なことじゃなかった。

もちろん、仕事を探そうとは思っていました。

だが、それより目の前の問題のほうが先決です。

今夜、明日、明後日をどう生き延びるか、なんですから。

首の骨を痛め、車はなく、一文無しで、食べるにもこと欠き、住む場所もない。

だが、春だったからやがて夏が来る。

それはプラスの面でしたね。

毎日ごみ箱をあさって、新聞紙だの、かじりかけのリンゴ、子供が食べ残したサンドイッチなどを探しました。

新聞紙はテントに敷くためです。

新聞紙を敷けば暖かいし、湿気が上がってこないし、地面の固さがやわらげられるし、平らになる。

だが、もっと大事なのは求人情報でした。

新聞が手に入ると、求人広告を見るんです。

首にけがをしていたから、肉体労働はできない。

だが、男がすぐにできる仕事といったら、ほとんどは肉体労働です。

日雇い、あちこちの現場の手伝いなんかばかりでした。

ところが、探しはじめて2か月したとき、金的を見つけたんです。

 

週末担当のラジオ・アナウンサー募集

経験者。連絡先・・・・・etc.

 

どきっとしましたよ。

オレゴン州メッドフォードには、放送界の経験がある失業者がどれくらいいるだろう?

公衆電話に走り、電話帳のイエローページで放送局を見つけて、貴重なコインを入れ、電話をかけました。

採用担当は編集部長のはずでしたが、不在でした。

こちらからおかけしましょうか、と相手の女性は言ってくれました。

「お願いします」わたしはできるだけラジオ向きの声を出して、求人広告を見たのだと答えました。

「4時まではここにいますから」そう言って公衆電話の番号を伝え、受話器を置くと、ボックスの横の地面に座り込んで、かかってこない電話を3時間待ちました。

翌朝、ごみ箱でペーパーバックのロマンス小説を見つけ、電話ボックスのあるところに戻りました。

1日中でも待てる態勢にしておきたかったんです。

9時に腰を落ち着けて本をひろげ、午前中に電話がかからなければ、昼食後もういちど、大切なコインを使って電話してみようと決意しました。

電話は9時35分にかかってきました。

「昨日、電話できなくてすみません」編集長でした。「どうしても手があかなくてね。ディスクジョッキーの求人広告を見たそうですね。経験はありますか?」

今度も、できるだけ響きのいい声で答えましたよ。「あちこちの放送局で仕事をしました」それから、いかにもさりげなくつけ加えました。「この20年ほどです」

このやりとりのあいだ、頼むから大型のRVがそばを通らないでくれと祈っていたんです。

なんで、リビングを大型車が通りぬけるのか説明するはめになるのはごめんですからね。

「こっちへきてもらえませんか?」編集部長はそう言いました。

「エア・チェックはもってます?」

エア・チェックというのは、音楽をぬいたディスクジョッキーのデモテープのことです。

相手は関心をもってくれたんです。

「いや、ポートランドに置いてきましたんで」わたしはごまかしました。

「しかし、コピーをくだされば即興で読みますよ。そうすれば、判断していただけるでしょう」

「いいでしょう」彼は同意しました。

「じゃ、3時ごろに来てください。4時には出かけなきゃならないので、遅れないように頼みます」

「わかりました」

 

 

つづく。

 

 

 

 

「神との友情」(2/5)

2日後、最後に残った数ドルをかき集めて、サザン・オレゴン行きのバスの切符を買いました。

別れた妻のひとりが、子供3人と暮らしていたんです。

彼女に助けてくれ、なんとか立ち直るまで、あいた部屋に数週間泊めてくれないか、と頼みました。

断られましたよ。

あたりまえですが。

もうほかに行くところがないんだ、と言うと、彼女は言いました。

「テントとキャンプ用品を使ってもいいわ」

そんなわけで、オレゴン州アッシュランド郊外にあるジャクソン・ホット・スプリングズの中央の広場にたどり着いたってわけです。

そこでは週に25ドルでキャンプさせてくれるんですが、その金がわたしにはなかった。

管理人に金をかき集めるまで数日待ってくれないか、と頼み込んだらびっくりしていましたよ。

公園は放浪者で満員で、それ以上は入れたくなかったんでしょうが、彼は話を聞いてくれました。

火事のこと、交通事故で首を痛めたこと、車を盗まれたこと。

信じられないほどの不運の連続に気の毒に思ったんでしょうね。

「よし、数日待ってやろう。どうにかできるか、やってくるといい。あそこにテントをたてな」

そう言ってくれたんです。

わたしは45歳で、もう人生は終わりだと感じていました。

放送界で専門職として良い給料をとり、新聞の編集長になり、全国でも有数の学校システムで広報を担当し、エリザベス・キューブラー・ロス博士の個人アシスタントを経験したのに、道路や公園でビールの缶やソーダの空き缶を拾い、1個あたり5セントの返金を稼ぐまでに落ちぶれたんです(空き缶20個で1ドル、100個で5ドル、500個拾うと、キャンプ料金になりました)。

あそこで過ごした1年近くのあいだに、路上生活にだいぶくわしくなりました。

実際には路上生活をしていたわけではありませんが、すれすれの暮らしですからね。

道路や橋の下や公園の暮らしにも規範があると知り、世間の人びとも同じ規範を守れば世界が変わるだろうと思いましたよ。

その規範というのは、助け合うということです。

宿なし生活を数週間も続けると、同じ境遇のひとたちと知り合いになります。

個人的なことはべつですよ。

誰もどうしてそんな生活をすることになったか、なんて聞きはしません。

だが、困っていれば、屋根の下で暮らしているひとたちのように知らん顔はしません。

足を止めて、「だいじょうぶかい?」と聞いてくれます。

最後に残った乾いた靴下をくれたひとも、こっちがその日の「ノルマ」を果たせなかったと知って、半日歩きまわって缶を集めて得た金をくれたひともいました。

誰かが(通行人に5ドルか、10ドル恵んでもらう、というように)大儲けをすると、キャンプ地に戻ってきてみんなに食べ物をふるまうんです。

最初の晩、寝場所をつくろうと奮闘していたときのことを覚えています。

着いたときは、もう薄暗くなっていました。

さっさとすませなければならないのはわかっていましたが、テントをたてた経験がそうあったわけじゃなかった。

風が強くて、雨も降りそうでした。

「あそこの木の下にしな」どこからともなく、しゃがれ声が聞こえてきました。

「それから、あの電柱にロープを張るんだ。ロープに印、つけとけよ。夜中にトイレに起きたとき、自分の首を吊らんようにな」

小雨が降りはじめました。

気づいたら、二人でテントをたてていましたよ。

名前も知らないその友人は、必要以外の口はきかず、「ここに杭を打たんと、な」とか「入り口のシートは上げといたほうがいい。寝てるまに水びたしになる」などと言うだけでした。

テントができあがったとき(ほとんどの作業は彼がやってくれたんです)、彼はカナヅチを地面に放り出し、「これでいいだろ」とつぶやいて、行ってしまいました。

「ありがとう、助かったよ」私はその背中に声をかけました。「あんた、名前は?」

「そんなことはどうでもいいよ」彼は振り返りもしませんでした。

それっきり、彼に会ったことがありません。

 

 

つづく。