「中村哲医師の著書」(本)

アメリカ軍の撤退により様々な混乱が伝えられているアフガニスタンですが、私の中にアフガニスタンという国についての知識があまりにも少なかったので、中村哲(なかむらてつ)医師の著書を数冊購入して読んでみました。

中村哲医師は当初医療支援のためにアフガニスタンにおいて、主にハンセン病患者の治療を行っていました。

しかし、干ばつによる飢餓や衛生状態の悪化のため死亡する子供や老人、難民化する人達を見て、医療よりも水と食料の確保が先決と、アフガニスタン国内に約1,600の井戸を掘り、更にゼロから土木工学を学び、地元福岡に古くからある山田堰を参考に総延長約27kmの灌漑水路を完成させて16,500ヘクタールの農地を再生、65万人が再び自活できるようにしました。

2019年、中村医師は武装勢力に銃撃され死亡しましたが、現在も彼を支援していたペシャワール会により医療、農業、用水路事業は継続されています。

 

中村哲 (医師) - Wikipedia

 

ペシャワール会のサイトからアフガニスタンの現状。主要メディアのニュースよりも現地の様子が良くわかります↓

www.peshawar-pms.com

 

NHKニュースから↓

www3.nhk.or.jp

www3.nhk.or.jp

 

アフガニスタン関連のニュースでは「タリバン」という言葉が頻繁に出てきますが、澤地久枝さんが中村哲医師に行ったインタビューを書籍化した「人は愛するに足り、真心は信ずるに足る」から、中村医師がタリバンについて語っている部分です↓

 

澤地:

まず食べられて、生きていけなければ定着性をもてないから、教育も身につかないでしょう。

 

中村:

そうだと思います。われわれが慣れているのは、いわゆる国民学校です。しかし、農村地帯に行くと、伝統的な寺子屋といいますか、モスクを中心にした識字教育などをするところ---マドラッサといいます---があって、国民学校はそれと並存している状態なのです。

特に米軍が入ってきたあとは、そのモスクを排除して国民学校を増やそうとしています。国連も、欧米の団体、日本の団体も、マドラッサは援助から外しています。いままで、モスクを中心に行われてきた学校教育は、危険思想の中心だという考え方が、どこかにあるんでしょうね。モスクを中心にした寺子屋方式の教育という、昔から地元に根付いたものがなくなるのは、地域のアイデンティティがなくなるに等しいわけです。国民学校もけっこうだけれども、マドラッサの建設もやってくれと言っても、その要望は通らないです。それどころか爆撃の対象にしている。

マドラッサで学んでいる子供を、タリバンというのですが、それはアラビア語です。単数形がタリブ、複数形がタリバンですが、マドラッサで学ぶ子どものタリバンと、政治勢力としてのタリバンは違うのです。その区別もよくわからずに、「タリバン終結している」というので爆撃して、「タリバンを80名殺した」と新聞に載る。死んだのは皆、子供だったとかね。タリバン=過激思想の持ち主じゃないんですよ。

 

澤地:

先生たちが井戸を掘るときに、タリバンの兵士が一緒に働いたりしていますよね。

 

中村:

その場合のタリバンは、いわゆる政治勢力としてのタリバンですけれども、その名称そのものは「学童」だとか、「ミッションスクールの生徒」というのに等しいわけです。それと政治勢力は違うという、現地で通用する常識すら知ろうとしない。無視してるみたいです。

たしかに、マドラッサを中心に、いわゆる政治勢力としてのタリバンが発生してくることは事実ですけれども、マドラッサと聞いただけで、外国から来る人は嫌悪する状態です。あれも、よくないですよね。過激思想をどう定義するかは別として、政治性をもったマドラッサはむしろ少ないですよ。マドラッサというのは、日本ではあまり知られていなくて、「タリバンを生み出すところ」ぐらいの理解しかないですが、実際は、地域の共同体のかなめなんです。

あそこは、基本的に自治の社会ですから、たとえば各村が争っているときに、その調停役になるのがマドラッサなのです。ですから、その地域に不可欠の要素であるわけですが、なかなか外国の人がそれを理解してくれない。これは僕の言葉ではなくて、アフガニスタンの教育大臣の話です。

マドラッサがないことには、アフガニスタンの地域共同社会というのは成り立たないということを、彼は強調していました。しかし、マドラッサ=タリバンという連想で、国連は援助項目から外している。そのことを嘆いていました。

 

 

次にアルカイダについて、同じく「人は愛するに足り、真心は信ずるに足る」から、

 

中村:

アルカイダが育つ地盤というのは、はっきり言って、アフガニスタンの農村にはないと断言できます。というのは、アルカイダのアラブ系のひとたちを見ていると、非常に裕福な家庭に育っていますね。タリバンと違う点はそのあたりで、いわば都会化された・・・・・。

 

澤地:

高度に教育された・・・・・。

 

中村:

エリート的な人たちを中心とした人たちです。一方、タリバンというのは、日本でいえばさしずめ、普段は肥たごを担いで、畑に撒くような、田舎っぺというか・・・・・。

 

澤地:

ローカルな人たちですね。

 

中村:

非常にローカルな人たちです。アルカイダタリバンはずいぶん違う。アフガンの純朴な人たちは、たまたまイスラム教という同じ宗教で、アラブの国からやってきた信仰深い人たちだなぁという以上の受け止め方をしているとは思えない。

 

澤地:

一つ一つの集落が、わりにきちんとしていて、たとえ同じイスラムの人であっても、よそ者が簡単に入り込めない感じがしますね。

 

中村:

ええ。

 

澤地:

たとえば、アラブで教育を受けて逃げてきた人が、突然、ここで一緒に暮らしていけますかね。

 

中村:

金の力でやった人たちもいますけれども、それはやむを得ず。皆、食えないから・・・・・。ワッハーブの人たちがアラブから大量にやってきたことがありましたが、皆、食えないからやむを得ず従ったというだけの話で、それ以上のものではなかったですね。それも、ごく一部の地域で、ほかの地域は、それに反感をもっていました。

あの当時、ソ連イスラム教勢力の戦いというふうに二分法で分かれる戦いじゃなくて、ゲリラ同士もかなり激しい戦闘をしていたんですね。それはアラブ系の入った地域になびいた人々と、それに反発するオリジナルのグループとの対決。これがかなり強かったですね。いわゆるアラブアフガンです。

逆に言うと、それだけアフガニスタンという国全体が伝統的な体質を尊重する国だということで、そこからは、われわれが想像するような国際テロ組織というのは生まれようがない。コンピュータを駆使して、飛行機を乗っ取ってというような芸当が、あのオジサンたちにできるはずがない。いわゆるテロ実行犯というのは、アラブ系のエリートで、ほとんどがドイツ、アメリカ、イギリスで育った若者たちです。

 

澤地:

そうですね。

 

中村:

だから、この戦争そのものがおかしいのは、皆が言っているようにそれですよ。「うちから、どのテロリストがアメリカにわたって米国人を攻撃しましたか」と。テロの温床は、じつは先進国の病理です。

だから、むしろアメリカの病は自分たちのなかにある。それを外に転嫁して、タリバン掃討だとか言っているわけです。

 

以上、「人は愛するに足り、真心は信ずるに足る」より。

 

平穏に生活している村に、いきなり外国の兵士がやってきてモスクやマドラッサを破壊し、コーランを破り捨て、罪のない子供たちの命を奪う。

日本で言えば、いきなり攻め込んできた外国軍が神社や仏教寺院を破壊し、仏教の経典を破り捨て、罪のない子供たちの命を奪うようなものでしょう。

イスラム教はアフガニスタンの人々の中に深く根ざしていますからモスクやマドラッサを破壊し、コーランを破り捨てることは、日本人が考える以上のものに違いありません。

そしてさらに、罪のない家族の命を奪うのですからアフガニスタンの人々の悲しみや憎しみは計り知れません。

中村医師の著書には、戦争により子供を失った母親が自爆テロに志願して亡くなる話、あるいは誤爆により幼いころに両親を失った男の子が成長して武装集団に入り、若くして外国軍との戦闘で亡くなる話などが出てきます。

日本におけるアフガニスタンに関する報道といえば、もっぱらタリバンを批判する内容ばかりですが、結局のところ新たな(政治勢力としての)タリバンを生み出しているのはアメリカを中心とした、アフガニスタンを攻撃してきた諸外国という側面があるのではないでしょうか?

やはり単にテレビのニュースで知ったつもりになるのではなく、真実は出来る限り自ら探して知る努力をしなければいけません。

 

こちらはマルワリード用水路完成前後の写真↓

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中村医師の著書、読みたい方は貸し出しいたします。

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次回は、中村医師のDVDのご紹介。

 

 

 

 

 

「多数決」(動画)

最近の身近な出来事から、amazarashiの「多数決」という楽曲の歌詞を思い出しました。

現在のこの世界で生きていくということは、誰にとってもなかなか大変なことです。

 

www.youtube.com

 

 

多数決

作詞・作曲:秋田ひろむ

 

臆病者ほど人を傷つけると言うなら 一番臆病なのはこの世界なのかもしれない

優しい奴ほど背中を丸めて歩く 腹いせにこの都会を踏んづけて歩く

 

時代は変わっていくのではなく吹きすさぶのだ 向かい風に逆った奴らは行っちまった 

息を止めた憐れな孤独の悲しみ共 空元気が繁華街に反響して空虚

 

価値観も善悪も 多数決で決まるなら 

もしかしたら 生まれる場所を間違えたのかもな

もういいよ いいよ この部屋は世界の隅で

機会を今かと、窺うには丁度いいかもしれない

賛成か 反対か 是非を問う 挙手を願う

 

多数派が少数派に面倒を押し付ける 持つ者は持たざる者を食い物にしてる 

強い者が弱きを挫いて溜飲を下げ 都会は田舎をゴミ捨て場だと思ってる

 

人類最後の解決法が戦争だけなら 進化論も当てにはならなかったみたいだ

その実、知恵のある振りをした獣だから 空腹もこれ以上無い動機になりえた

 

違和感も常識も 多数決で決まるなら

もしかしたら当たり前も もう疑うべきかもな

もういいよ いいよ この町は忘れ去られた

良からぬ事を企てるには丁度いいかもしれない

賛成か 反対か 是非を問う 挙手を願う

 

札束の数 名誉の数 友達の数  勲章の数 

勝ち越した数 賞状の数 努力した数 褒められた数 

僕らの価値は数字じゃない

自分の評価を人に任せる訳にはいかない

世界は移り変わる 昨日の価値は今日の無価値

 

罪悪も合法も 多数決で決まるなら

もしかしたら百年後は もう全員罪人かもな

もういいよ いいよ この世界は壊れすぎた

白紙から描き直すには丁度いいかもしれない

賛成か 反対か 是非を問う 挙手を願う

 

 

 

「神との友情」(5/5)

キャンプ道具を引きずって公園に行ったあの日を祝福します。

あれは人生の終わりではなく、はじまりだったんですから。

あの公園で忠誠心と誠実さ、真摯さ、信頼、そして簡素さや分かち合い、生き延びるということを学びました。

逆境にあっても決してあきらめず、そのときその場の真実を受け入れ、感謝することも学びました。

学んだのは映画スターや著名な作家からだけではなかったんです。

友達になってくれたホームレスのひとたちや、毎日会うひと、人生で出会ったひとたちからも学びました。

郵便配達人、食料品店の店員、ドライクリーニング店の女性。

 

誰もが何かを教えてくれる。

何かを贈り物として与えてくれる。

そして、誰もがあなたから贈り物を受けとる。

これが、偉大な秘密だよ。

あなたは彼らにどんな贈り物をしただろう?

迷って誰かを傷つけたと思っても、それが贈り物ではないと思わないように。

それも大きな宝物だったかもしれない。

あなたの公園での生活のようにね。

あなたは、いちばん楽しかったことよりも、最大の苦しみから大きなことを学んだのではないかな? とすれば、あなたの人生で誰が悪人で、誰が犠牲者だろう。

それを経験のあとではなく、前にはっきりと見ぬければ、ほんとうに<マスター>になれる。

貧窮と孤独の日々は、あなたの人生が決して終わっていないことを教えてくれた。

人生が終わりだなんて、絶対に考えてはいけない。

毎日が、毎時間が、毎瞬が新たなはじまりで、新たな機会で、新たに自分自身を再創造するチャンスだということを忘れないように。

最後の瞬間、死のときですら、それを実行すれば、あなたの人生経験のすべてが正当化され、神の前で栄光に包まれる。

あなたが凶悪犯であっても、死刑囚房にいる殺人者でも、刑執行を目前にした犯罪者でも、その真実は変わらない。

このことを、知っておきなさい。

信じなさい。

真実でなければ、わたしはこうは言わない。

 

 

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「神との友情」(4/5)

 

電話ボックスを出たわたしは、文字どおり飛びあがって歓声をあげましたよ。

たまたま、二人の人間が通りかかり、ひとりが言いました。「いいことがあったようだな」

「仕事が見つかったんだ!」わたしは叫びました。

二人は本気で喜んでくれました。

「どんな仕事だい?」ひとりがたずねました。

「週末のディスクジョッキーだよ!3時に面接なんだ」

「その格好でか?」

わたしは自分の格好を考えていなかった。

髪は伸びほうだいだが、そっちはまあ問題ないだろうと思いました。

アメリカのディスクジョッキーの半分はポニーテールですから。

だが、服のほうはどうにかしなければならなかった。

キャンプ場にはコインランドリーがありましたが、洗剤を買って洗濯して乾かしたものを身につけ、さらにメッドフォードまで往復するだけの金がなかったんです。

そのとき、自分がどれほど貧しいか、やっと気づきました。

町に出て面接を受けるという基本的なことすら、奇跡でもなければできないんです。

わたしがぶつかったのは、ホームレスのひとたちが自分で稼ぐふつうの生活に戻ろうとするときに立ちはだかる障壁でした。

二人はわたしを見て、何を考えているかを読みとったようでした。

「金、ないんだな?」ひとりが、ちょっとばかにしたように言いました。

「2ドルくらいかな」それでも過大評価かもしれない、と思いましたよ。

「わかった。来なよ」

わたしは二人について、テントが集まっているところへ行きました。

「彼には、ここから出るチャンスがありそうなんだよ」二人は友人に説明し、それから何かささやきましたが、わたしには聞こえませんでした。

それから、年かさのほうがわたしを見て言いました。

「あんた、何かまともな衣類をもってるか?」

「ああ、ザックの中にあるが、汚れてる。すぐに着られるものはないんだよ」

「それ、もってきな」

戻ってみると、見たことのある女性が加わっていました。

彼女は公園のあちこちに停めてあるトレーラーのひとつに住んでいたんです。

「それを洗って乾かしてくれば、アイロンをかけてあげるわよ」

彼女は言いました。

男たちのひとりが進み出て、じゃらじゃらとコインの入った茶色の紙袋を差し出しました。

「みんなで集めたんだ。コインランドリーに行ってきな」

5時間後、わたしは長髪に目を輝かせ、町中のアパートからやってきたような姿でラジオ局に現れたというわけです。

そして、職を得ました!

「1時間6ドル25セント、1日8時間です」と編集長は言いました。

「こんな仕事で悪いんだが、いま空きがあるのはそれだけでね。あなたにはたぶん役不足だろうから、断ってくれてもかまいませんよ」

週に100ドル!週に100ドル稼げるんです。

月に400ドルになる。

当時のわたしにとっては大金でした。

「いやいや、いまはそれくらいがちょうどいい」わたしは軽い調子で答えました。

「ラジオの仕事は好きなんですが、いま、ちょっとべつのことにかかってましてね。腕を錆びつかせない程度の仕事がしたいんです。楽しみですよ」

嘘ではありませんでした。

楽しみだったんですから。

生き延びられる楽しさです。

それから2か月、テント暮らしを続けて金を貯め、63年型のナッシュ・ランブラーを買いました。

百万長者になった気分でしたね。

キャンプ場で車をもっているのはわたしだけだったから、気前よく貸しましたよ。

みんなから受けた恩は決して忘れませんでした。

11月、だんだん寒くなってきたので、週に75ドル払って、公園にある小さなワンルームのキャビンに移りました。

友だちを外に置き去りにするのは心苦しかった。

それだけの金をもっている者はほかに誰もいなかったですから。

それで、とくに寒い日や雨の日には、一人、二人を招いて泊めました。

順番にして、悪天候からのがれるチャンスがみんなにまわるようにしました。

いつまでもパートタイムで終わるのかと思いかけたころ、突然べつのラジオ局から午後の番組をやらないかと申し出を受けました。

ウィークエンドの番組を聞いて気に入ってくれたんです。

だが、メッドフォードのラジオの市場はそう大きくはありませんから、最初の給与は900ドルでした。

それでもまたフルタイムで働き、キャンプ場から出られます。

キャンプ場暮らしは9か月でした。

あのときのことは決して忘れませんよ。

 

 

つづく。

 

 

 

「神との友情」(3/5)

公園での暮らしはとても単純でした。

最大の問題(最大の望み)は、暖かくして濡れずにいること、それだけです。

昇進も望まなければ、「女の子と知り合いたい」と思うことも、電話代で気をもむこともないし、これからの人生で何をすればいいかと悩むこともありませんでした。

雨が多かったし、3月の冷たい風が吹きすさんでいたから、とにかく身体を濡らさず、暖かくしていようとがんばるしかなかった。

ときには、どうすればそんな生活から脱出できるか考えることもありましたが、それよりも、どうすればこの生活を続けられるかのほうが大問題だったんです。

週に25ドル稼ぐのは容易なことじゃなかった。

もちろん、仕事を探そうとは思っていました。

だが、それより目の前の問題のほうが先決です。

今夜、明日、明後日をどう生き延びるか、なんですから。

首の骨を痛め、車はなく、一文無しで、食べるにもこと欠き、住む場所もない。

だが、春だったからやがて夏が来る。

それはプラスの面でしたね。

毎日ごみ箱をあさって、新聞紙だの、かじりかけのリンゴ、子供が食べ残したサンドイッチなどを探しました。

新聞紙はテントに敷くためです。

新聞紙を敷けば暖かいし、湿気が上がってこないし、地面の固さがやわらげられるし、平らになる。

だが、もっと大事なのは求人情報でした。

新聞が手に入ると、求人広告を見るんです。

首にけがをしていたから、肉体労働はできない。

だが、男がすぐにできる仕事といったら、ほとんどは肉体労働です。

日雇い、あちこちの現場の手伝いなんかばかりでした。

ところが、探しはじめて2か月したとき、金的を見つけたんです。

 

週末担当のラジオ・アナウンサー募集

経験者。連絡先・・・・・etc.

 

どきっとしましたよ。

オレゴン州メッドフォードには、放送界の経験がある失業者がどれくらいいるだろう?

公衆電話に走り、電話帳のイエローページで放送局を見つけて、貴重なコインを入れ、電話をかけました。

採用担当は編集部長のはずでしたが、不在でした。

こちらからおかけしましょうか、と相手の女性は言ってくれました。

「お願いします」わたしはできるだけラジオ向きの声を出して、求人広告を見たのだと答えました。

「4時まではここにいますから」そう言って公衆電話の番号を伝え、受話器を置くと、ボックスの横の地面に座り込んで、かかってこない電話を3時間待ちました。

翌朝、ごみ箱でペーパーバックのロマンス小説を見つけ、電話ボックスのあるところに戻りました。

1日中でも待てる態勢にしておきたかったんです。

9時に腰を落ち着けて本をひろげ、午前中に電話がかからなければ、昼食後もういちど、大切なコインを使って電話してみようと決意しました。

電話は9時35分にかかってきました。

「昨日、電話できなくてすみません」編集長でした。「どうしても手があかなくてね。ディスクジョッキーの求人広告を見たそうですね。経験はありますか?」

今度も、できるだけ響きのいい声で答えましたよ。「あちこちの放送局で仕事をしました」それから、いかにもさりげなくつけ加えました。「この20年ほどです」

このやりとりのあいだ、頼むから大型のRVがそばを通らないでくれと祈っていたんです。

なんで、リビングを大型車が通りぬけるのか説明するはめになるのはごめんですからね。

「こっちへきてもらえませんか?」編集部長はそう言いました。

「エア・チェックはもってます?」

エア・チェックというのは、音楽をぬいたディスクジョッキーのデモテープのことです。

相手は関心をもってくれたんです。

「いや、ポートランドに置いてきましたんで」わたしはごまかしました。

「しかし、コピーをくだされば即興で読みますよ。そうすれば、判断していただけるでしょう」

「いいでしょう」彼は同意しました。

「じゃ、3時ごろに来てください。4時には出かけなきゃならないので、遅れないように頼みます」

「わかりました」

 

 

つづく。