「幸福とは --普通一般の男女の立場に立って--」
今回はジェラルディン・カミンズ著「永遠の大道」から、第9章「幸福とは --普通一般の男女の立場に立って--」を紹介いたします。
この「永遠の大道」は英国の詩人・評論家でケンブリッジ大学において古典学の講師を務めたこともあるフレデリック・W・H・マイヤース(1843年2月6日 - 1901年1月17日)が死後、霊媒のジェラルディン・カミンズ女史(1890年1月24日 - 1969年8月24日)を通じて自動書記により伝えた内容を本にしたものです。
この自動書記は1924年ー25年、27年、31年の3期に分けて届けられました。
自動書記が始まると、まとまった通信が終わるまでカミンズ女史は途切れることなく書き続け、速い時には2,000語を1時間15分で書き終えたそうです。
マイヤースは1882年に設立された英国心霊研究協会(SPR)のメンバーの一人で、生前から人間の個性が死後も存続することを信じていました。
フレデリック・ウィリアム・ヘンリー・マイヤース - Wikipedia
一般的に霊界から通信を送ってくる存在の多くは死後かなりの年数が経っているか、あるいはシルバーバーチを介して情報を送っていた存在のように生前の素性を明かさない例が多いため、マイヤースのように生前の写真まで残っているケースは珍しいと言えます。
マイヤース本人が自動書記により語っているように、彼はまだ死後間もないためそれほど上の階層まで到達しておらず物質世界に対する理解もあるため、肉体を持った人間にとっては比較的実現可能な内容になっているのではないかと個人的には感じました。
では「永遠の大道」から、第9章「幸福とは --普通一般の男女の立場に立って--」を紹介いたします。
「幸福とは --普通一般の男女の立場に立って--」
幸福とは何かを論ずるに当たっては、中庸の感覚を失わず、また人間というものが多種多様であることを念頭に置いておく必要がある。
つまり一人の人間にとって真実で不変の喜びであることが、別の人間にとっては不満と悩みの種となることも有りえるのである。
この道を説くものは、これまで幸福について厳密な原則を規定すべく努力してきたが、惜しむらくは彼らは、誤った前提の上に論理を重ねている。
人間の性情は千差万別であることを考慮に入れていない。
いかなる階級、いかなる国民、いかなる民族、いかなる男女に対しても、特定の原則をこしらえて「私の言う通りにすれば必ず幸せになれる」などと断言できる性質のものではない。
人によっては物質的に、あるいは精神的に、さらには霊的にそれが実行できるまでに成熟していないかも知れないし、仮にできたとしても、実際に日常生活に適用した時に、幸福どころか、退屈と幻滅しかもたらさないかも知れない。
一例を挙げると、キリスト教と仏教の禁欲主義者や神秘主義者が唱道する幸福への道はほぼ一致している。
真の幸福は五感の満足から生まれるものではなく、また金銭や力、あるいは権威によっても獲得できるものではないと断言する。
そしてその全てを放棄すること、つまり、ありとあらゆる形での富・権力・美を蔑むことを奨励する。
真の幸福はただ一つ、静思内観によって神と一体となることであると主張し、その神から賜ったはずの五感を歓ばせ自然の欲求を満たしてくれるものは全て軽蔑せよと説く。
私は彼らの見解には多くの重大な抗議の余地があると思う。
多分彼ら自身にとってはそうした静思内観生活が唯一の幸福の源泉であるかも知れない。
しかし百人のうちの九割は神秘主義者でも禁欲主義者でもない。
ごく平凡な常識人であって、体質的にも気質的にもそのような非常識な生活は実行できない。
無理して実行しようものなら、いたずらに性情を歪め、拘束し、痛めつけるのみである。
平凡人にとって真の幸福とは、中庸と自制と自由闊達の中にこそ見いだされるものである。
何よりもまず自制心を身につけなければならない。
それが修得されれば、こんどは周りの人々と環境をうまく制御できるようにならなくてはいけない。
他人を制御する力は身体的ストレスや貧窮から守り、意地悪な人間によって人生を不愉快なものにされないだけの抵抗力を身につけさせてくれる。
次に自分という存在の小ささを悟らなくてはならない。
それが謙虚さを生み、自然に同胞も生活の中に溶け込み、一時的にせよ”我”を忘れて”他”の不幸に対する同情の手を差しのべられるようになる。
さて人間性の中でも必須不可欠な要素は創造的本能である。
したがってその賢明なる活用は何にもまして優先されるべきものの一つであらねばならない。
創造力が性的衝動から誘発されることも無きにしもあらずであるが、大部分は性とは無関係の分野において最高の幸福の源泉となっている。
性生活は各自事情が異なるが、それがいかなるものであれ、それとは別の分野において創造的本能の捌け口を求めるのが賢明である。
仮に建設的精神や想像力に恵まれていなくても、何らかの形で美を玩味したり適度の節制の中での五感の満足を得たりすることの中に、創造的本能を発揮することができる。
しかし表現する媒体がたとえ素朴であっても、創造力が豊かであると同時に自制心を身につけた人ほど幸福な人はいないと言えよう。
金銭の蔑視を説く禁欲主義者は、大体において金銭に不自由しない人である。
友人や崇拝者が必要なだけのものを賄ってくれるか、自ら立派な収入があるといった具合である。
そこで私としては、幸福を求める人に対して、金銭の適度の尊重を力強く忠告したい。
金銭なくしては食べるに事欠くか、病気などの肉体的不快を味わい、肉体に宿る知性や魂の光を明るく保つことが不可能となる。
それは、ある種の自由を奪われることを意味する。
なんとなれば、間断なく肉体の欲求にさいなまれることになるからである。
また仮に極度の薄給で長時間にわたって働かざるを得ない身の上であれば、人間性を磨くための時間も体力も無く、当然、進んで他人を益するどころではなくなってしまう。
そういう次第であるから、適度の金銭欲はむしろ徳目の一つなのである。
それは自由独立の人間となりたいという願望の表れであり、それを成就し、その結果として得られる満足感は、他人のために役立つことをする原動力となるものなのである。
幸福も努力なしには得られない。
叡智に裏打ちされ、理性にコントロールされた五感の満足、健康な身体のための各種の運動、精神の発達のための学問、そして寛容性ないしは慈悲心に富んだ人生観、こうしたものが一丸となって初めて獲得されるもので、それが究極の目的である霊性の開発へとつながるのである。
普通一般の男女にとっての幸福とは各自にそなわった才覚ーー身体と感覚と精神と霊的感受性等の一切の力量ーーを着実にそして賢明に活用するところから生まれるものである。
最後に、近代人としては叡智の中にこそ人生の秘訣、心の平静を得る秘訣があることを知っていただきたい。
信念・希望・仁愛・聖パウロが説いたこれらの徳目は全て、”叡智”の一語の中に含まれており、その光輝によって気高さを増す。
叡智を欠いた信念にも希望にも仁愛にも気高さは見られず、闇に埋もれたものが健全なる発達を遂げることは有りえないのである。
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