「お詫びと訂正。」
以前に、「オステオパシーの源流は日本?」というシリーズで江戸時代の
整骨医「二宮彦可」について書きましたが、その中で重大な誤りが発覚
いたしましたので訂正とお詫びをしたいと思います。
きっかけは、二宮彦可と縁のある山陰地方の市の観光協会の職員の方
からのメールでした。
私は記事の中で、家系図にある二宮金次郎は薪を背負って本を読む像で
有名な二宮尊徳であると書きましたが、完全な誤りです。
この職員の方も書いていましたが、生没年は二宮彦可が1754年~1827年、
二宮尊徳が1787年~1856年であり家系図の記述とも合いませんし、この
家系図が記載されていた「医譚 『二宮彦可小伝』」にも、二宮彦可の
子孫の二宮金次郎氏について「昭和の初期まで東京浅草千束町において、
薬種商を営んでいたが、戦災後の行方は不明である。」と書かれていました。
私が最初に二宮彦可に関する記事を書いたのが2013年10月13日、
家系図に関する記事を書いたのが2014年7月3日と、かなりの期間が
空いてしまったため、「医譚『二宮彦可小伝』」をしっかりと全て読み返さ
なかった私が、二宮尊徳のことも良く調べずに勝手に脳内変換をして、この
ような誤った内容の記事を書く事となってしまいました。(仕事の合間を
見ながら文献を調べて記事を書くため、どうしても時間がかかってしまいます。
言い訳ですが・・・。)
二宮彦可、二宮尊徳の親族、関係者の皆様、また「医譚 『二宮彦可小伝』」を
書いた県立新潟病院整形外科の蒲原氏、岡山大学医学部生理教室の中山氏には
謹んでお詫び申し上げます。
また私にメールを下さった方にもこの場をお借りして、再度感謝の意を
伝えたいと思います。
本当にありがとうございます。
今後、このようなことが無いように史実等の記事を書く際には、より内容を
精査して書いていく所存です。
また私の記事に誤りを見つけた際には、御一報いただけると幸いです。
なお、修正後の記事は下部の <関連記事> にある
「オステオパシーの源流は日本?(5)二宮彦可と正骨範その3(最終回)」
を、お読みください。
しかし今回の件で現在も二宮彦可の子孫が東京、あるいは日本のどこかで
暮らしている可能性が出てきました。
どなたか、昭和の初期まで東京浅草千束町において薬種商を営んでいた
二宮金次郎氏の消息を知っている方は、いないでしょうか?
<関連記事>
「オステオパシーの源流は日本?」