「オステオパシーの源流は日本?(4)」二宮彦可と正骨範その2

かなり間が空いてしまいましたが、「オステオパシーの源流は日本?」シリーズの 続きを書きたいと思います。 今回は、私が勝手にスティルは何らかの形でこの本を入手して、参考にしたのでは ないかと考えている、1807年(文化4年)出版の「正骨範」の著者である二宮彦可 についてです。 過去記事はこちら↓  「オステオパシーの源流は日本?」
 「オステオパシーの源流は日本?(2)」
 「オステオパシーの源流は日本?(3)二宮彦可と正骨範その1」
参考までに、こちらもどうぞ。   「新事実!」
「新事実!」の記事の時にも書いたように、最近の版の「いのちの輝き」には、 この「オステオパシーの源流は日本らしい。」という部分の記述だけが、すっぽりと 抜けています。 実際にスティル自身も、オステオパシーは日本の整骨術を参考にしたとは言っては いませんし、現在のアメリカのオステオパシー協会もこれを否定しています。 スティルはもともとは西洋医学の医師でしたが、当時の西洋医学に疑問を感じて オステオパシーを考案するまでにも、食事療法、磁気療法、水治療法、ホメオパシー など、いろいろなことを試みています。 これだけのことを試した人ですから、彼が東洋医学に目を向けるということは、 私の感覚からすると、自然な流れではないでしょうか。 ちなみに二宮彦可の生没年は1754~1827年で、「正骨範」を書いたのが 1807年、一方スティルの生没年は1828~1917年で、オステオパシーを 発表したのが1874年となっています。 両者の生没年を見ると、 「もしかするとスティルは二宮彦可の生まれ変わりで、正骨範を入手して参考に  したのではなく、単に自分が前世でおこなっていたことを、思い出しただけ!?」 などと想像してしまうのは、私だけでしょうか? 例えばチベット仏教では、ダライ・ラマは亡くなると、すぐに今生に生まれ変わって きますし、日本でも菅原道真(845~903年)と平将門(903~940年)で 同じような、言い伝えがあります。 実は以前から、スティルの映像でアメリカ人の彼が、なんとなく会釈をしているように 見える部分(50秒くらいから)が日本人っぽいな~と思っていたのですが、前世が 日本人だったと考えれば、納得できます。 どうしても前置きが長くなってしまい、なかなか本題に入れません・・・。 ということで、次回こそは二宮彦可の来歴について、きちんと書きたいと思います。                                      白山オステオパシー院長