「インド訪問記(9)」
3月19日(火)
本日はカンチプラムからチェンナイへと移動。
移動中にガイドさんにインドのことをいろいろと教えていただきました。
インドを車で走っていると、トラック荷台の後部などに「SOUND HORN」と書かれているのをよく見かけます。
この「SOUND HORN」の意味が気になっていたので聞いてみると、「(トラックなどの大型の車は、乗用車よりも一般的に速度が遅いので)後ろから追い越す際にはクラクションを鳴らしてください。」ということなのだそうです。
追い越しをする前にクラクションを鳴らすことにより、トラックドライバーに「これから追い越しますよ」と後ろの車が知らせ、追い越し時の事故を防ぐということです。
その事を聞いてから私たちの車のドライバーを見ていると、確かにむやみにクラクションを鳴らしているわけではなく、追い越しの際に注意を促すために鳴らしているということが分かりました。
一見、無秩序に鳴らしているように見えるインドのクラクションにも、きちんとした意味があったのですね。
自動車に関しては、やはりインドも経済成長とともに自動車の保有率が上昇し、中には2台、3台と持つ人もいるということです。
そのため年々道路の渋滞がひどくなっており、ニューデリーなどは、以前は日曜日はそれほど渋滞がひどくなかったが、現在では曜日に関係なく常に渋滞しており、通勤するには出社時間の2時間以上前に家を出なければならない人も珍しくないそうです。
そんなに混んでいるなら電車を利用した方が良いのでは?と聞いたところ、電車もメチャメチャ混んでいるので、「どちらを選んでも大変。」と言っていました。なんと言っても日本の10倍以上の人口ですからね~。
ちなみにインドの国産車TATAは、安い車種ならば新車で20万円くらいで買えるので、これならば月収2万円の人でも手が届きますね。
こちらがTATAの自動車。
ちなみにオート3輪もたくさん走っています。オートリキシャ、あるいはリキシャという呼び名がインドでは一般的なようですが、トゥクトゥクと呼ぶ人もいました。インド国内でも、地方によって呼び方が変わるようです。以前に行ったスリランカではスリーホイールと呼んでいました。
次にカディについて聞いてみました。
カディとは、手紡ぎ、手織りの生地のことを言い、アシュラムなどでは多くの人達がカディを着ています。
ちなみに綿素材はカディ・コットン、絹はカディ・シルクと言いますが、一般的に単にカディというと、カディ・コットンのことを指します。
なぜアシュラムなどではカディを着る人が多いのか聞いてみると、「カディは現代のインド人のアイデンティティの象徴」なのだそうです。
カディについて説明したサイトがありましたので、転載させていただきます。
「カディとは」
カディとは、手紡ぎ手織りの完全なる手作り生地。
手紡ぎ手織りのカディは、インド独立運動と非常に深い関係があり、自由への闘争の象徴でもあります。
インド独立の父、マハトマ・ガンジーはこう書いている。
スワデシ(国産品)の無いスワラジ(独立)は、生命の無いただの屍に過ぎない。
そしてスワデシがスワラジの魂であるならば、カディこそがスワデシの根幹だ。
カディを身につけるというのは、インドとその人々の自立を目標としていた。
インドが独立するためには、自国の産業を確立する必要があったのだ。
また、カディの生地は、インドが独立を勝ち取るために必要な「団結」を意味する制服でもあった。
ガンジーはカディという象徴的なものを人々が身に纏う事により、団結力が強まる事を願っていた。
1921年、ガンジーが 「自分達が纏う衣服のための糸を自らの手で紡ごう」という運動を起こした。
その運動は、大きなうねりとなって様々な意味を帯びて独立運動に勢いを与えていった。
カディ生地の糸紡ぎ機・チャルカーは、短期間のうちにインド中に広まり、定着して行きました。
このことにより、仕事の無かった何十万人もの人達が雇用の機会に恵まれることになったのです。
カディは革命と反抗のシンボルとしてだけではなく、インド人としての帰属意識の一部となりました。
当時、イギリスに対する反逆罪で囚われの身になっていた、ジャワハル・ラール・ネルー(独立後初の首相)が、娘のインディラ・ガンディー(第三代首相)の結婚式の衣装にと、獄中で自ら薄紅色のカディ・サリーを織り上げた。
この薄紅色のカディ・サリーは、今でもネルー・ガンディー家の結婚式では、花嫁が必ず身に纏う。
この出来事が理由で、インドの人々がカディというものをより深く、心から愛するようになった。
転載元のサイトはこちら↓
http://www.teentaal.nu/corner/about_khadi.html
ニューデリーにはその名も「カディ」というカディ専門店があり、毎年10月2日のマハトマ・ガンジーの誕生日には、全製品が半額で買えるそうです。
カディ好きな方は、この時期を狙ってインドに行ってみてはいかがでしょう?
ガイドさんといろいろと話しているうちに車はチェンナイ空港に到着します。
この日はONさんがマドゥライにあるヨガのアシュラムに向かう日だったので、ここでONさんとはお別れし、残るは私、ガイドさん、ドライバーさんの3人。
ONさんと別れたあと、パルタサラティ寺院(Parthasarathy Tenmple)に行きます。
パルタサラティ寺院(Parthasarathy Tenmple)
チェンナイにあるヒンドゥー寺院。8世紀にパッラヴァ朝により建造され、16世紀にヴィジャヤナガル王国によって改修される。ヴィシュヌ神の化身とされるクリシュナ神を祀る。
クリシュナ(ウィキペディア)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%8A
クリシュナと言えば、エドガー・ケイシーがこの地球上にある全ての書物の中で最も宇宙の真理に近いものと言った「バガヴァットギーター」において、アルジュナの導き手となった存在です。
血族同士の戦いを前に、
血縁の人々を殺して
いったい何の益があるのでしょうか
わが愛するクリシュナよ
私は勝利も領土も幸福も欲しくない
と問うアルジュナに対して、「行為の結果に執着すること無く己の義務を遂行せよ。」とクリシュナは説きます。
では、バガヴァットギーターからクリシュナの言葉をいくつか。
私も 君も ここにいる全ての人々も
かつて存在しなかったことはなく
将来 存在しなくなることもない
始めなく終わりなく永遠に存在しているのだ
アルジュナよ 義務を忠実に行え
そして 成功と失敗を等しいものと見て
あらゆる執着を捨てよ
このような心の平静をヨーガというのだ
善を見て愛慕せず
悪を見て嫌悪せず
好悪の感情を超えた人は
完全な智識を得たのである
バガヴァットギーターは最初は読み進むことが非常に困難ですが、 繰り返し読むと、少しづつ少しづつその意味を理解できるようになると感じています。
現在、私の蔵書には4種類のバガヴァットギーターの日本語訳がありますが、今回使わせていただいたのは、その中で一番読みやすいと思われる田中 嫺玉さんの翻訳版です。
私がこれまでに読んだバガヴァットギーターの日本語訳の中で最も素晴らしいと思ったものは他の訳者のものですが、こちらは現在のところ出版されておらず、私が読みたいと思った時に読める状況にはないため、いつの日か出版されることを願っています。
クリシュナはヒンドゥーの神々の中でも最も愛されている神で、特に北インドではクリシュナを祀るヒンドゥー寺院が非常に多いということです。
クリシュナは愛の神としても知られ、ハンサムで、武勇に優れ、知力もあり、彼が横笛を吹くと、どんな女性でもたちまち恋の虜になってしまうそうです。
彼には1万6千人の妻と、18万人の子供がいたと言われています。
こういったところは、いかにもヒンドゥーの神様っぽいですよね。
この日はこちらの寺院でもお祭りをおこなっており、日本の神輿と同じように周辺の各地域から来た山車が列を作って引かれていました。
寺院の近くの通りにはこんなポスターも。
その後チェンナイ市内のホテルに向かい、この日はここでガイドさん達ともお別れして私一人での行動となりました。
部屋で少し休んでからスマホでホテルの周囲に何か無いかと探してみると、近くにPondy Bazarというお店が建ち並ぶエリアがあったので、行ってみることに。
ホテルのフロントのお兄さんに距離を聞いてみると、徒歩で10分、リキシャなら50ルピーということで、リキシャで行くことにします。
ホテルの前でリキシャを呼んでもらい乗り込みます。
こちらがPondy Bazar↓
Pondy Bazarを歩いていくと、ラーマクリシュナ ミッションが運営する学校がありました。ラーマクリシュナもラマナ・マハリシとともに、インドでは有名な聖者です。ラーマクリシュナの言行録としては「コタムリト(不滅の言葉)」があります。
SRI RAMAKRISHNA MISSION HIGHER SECONDARY SCHOOL
ラーマクリシュナの弟子の中でも傑出した弟子のヴィヴェーカーナンダと彼の言葉。ヴィヴェーカーナンダがラーマクリシュナミッションの創設者。
WE WANT THAT EDUCATION BY WHICH CHARACTER IS FORMED,
STRENGTH OF MIND IS INCREASED,
THE INTELLECT IS EXPANDED,
AND BY WHICH ONE CAN STAND ON ONE'S OWN FEET.
我々が目指す教育とは、
人格の形成、
精神力の強化、
知性の拡大、
そして各々が自らの足で立つことが出来るように
することである。
つづく。